PLAYNOTE 従軍中のウィトたんと、一つの季節に終わりに寄せて

2013年04月06日

従軍中のウィトたんと、一つの季節に終わりに寄せて

[公演活動] 2013/04/06 22:51

こまばアゴラ劇場にて絶賛上演中の、『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行“──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』が明日で終わり、この爆弾低気圧とともにひとつの季節が終わろうとしている今夜、手に取る本も手につかず、であるならば書くことが一番なので、書いて眠ることにする夜なのです。

お芝居は明日で終わります。

小さい頃の思い出。僕は、ぜんぜん、本とか好きな子どもじゃなかった。高校生になるまで、まともに読んだ本なんて、両手の指で事足りるくらい。それも『十五少年漂流記』とか『機動戦士Vガンダム』とか『ズッコケ三人組』とか、そんなんばっかりだったんだ。アニメとゲームの方が、よっぽど好きだったね。

でも僕の忘れられない話。中学校の、名前も忘れた教頭先生。あんたのやったことが、今でも俺の胸に刺さって抜けないんだ。

俺はなんだっけ、忘れたけど、学校新聞にさ、運動会だか文化祭だかの感想文を載せることになったんだ。何で俺が選ばれたのかは全然覚えていない。国語より算数とか理科の方がよっぽど得意だし好きだった。でも俺ははじめて人の目に触れる、いろんな人が読む文章を書いたんだね。

一生懸命書いたんだ。一行、一行に気を配って、書いたんだ。特に一行、気を払って書いた文章があったんだ。内容は覚えてないけど、ちょっと生意気な文章を一つ書いたんだ。小粋だと思える文章を書いたんだ。

それを名前も忘れた教頭先生、……露木先生だったかな? 違うかな? 彼は、55歳くらいのあのオヤジは、勝手に消して、書き換えて、掲載したんだ。ショックだったよ。一番気に入っていた文章が、とてもださい、ありきたりな「たのしかったです」みたいな文章に変えられていたからさ。苦痛だったよ。全校生徒に向かって、「俺はセンスのない奴です」と叫んでいるようなものだからね。それに、一番気に入っていたあの文章は、渡した原稿と一緒にどこかに消えてしまった。

すっごい抗議したよね。怒ったよね。だけど全然とりあってくれなかった。「学校新聞に載せるにはふさわしくないから」という理由だったけど、俺は怒ったよ。その教頭先生は元は国語の生成だった人だった。一気にすべての教科書がうそ臭く思えたね。何が「思ったことを自由に書いてみましょう」だ。何が「作者の気持ちを考えてみましょう」だ。ふざけるな。お前らは、お前らは、低劣すぎる。

あの虚実と不正は排撃せねばならない。だけど、僕には力がない。今でも覚えているし、一生覚えている。許せないぜ教頭先生。あんたの罪は世間的には問われることもないだろうし「それくらいのことで顔真っ赤にして怒っちゃってプププ」と俺が笑われるかもしれないが、未だに僕は許せない。あいつが許せない。あいつが、というより、あいつの中にあった惰弱で低劣で下品な精神が許せない。許せない。許せない。

だったら載せなければいいじゃないか。それだけじゃないか。俺に一度、聞けばいいじゃないか。直してもいいですかって。直さないと載せられないよって。聞けばいいじゃないか。そしたら俺は、直したかもしれないし、載せないことを選んだかもしれない。どっちでもいい、どっちを選んだかわからない、今、何を書いたのかも覚えていないくらいだから、どっちを選んだか全く想像がつかないけれど、とにかく、ずるいよ。それはずるい。許し難い。

世の中に許し難いことが多すぎる。「大目に見ろよ、大人だろ」「引っ込めとけって、大人だろ」。それが大人ということなのだろうが、それは本当に大人なのだろうか。大人なら、本当にあってはならないことをきちんと真っ直ぐ指さして、「それは、やってはいけない」と、声を上げるべきなのではないだろうか。

いや、はっきり言おう。声を上げるべきだよ。大人が声を上げないと、僕みたいな子どもがまた一人どこかで増えていくだけだ。

* * *

従軍中のウィトたん、は、こまばアゴラ劇場で絶賛上演中です。愛おしい作品である。ぜひ、見に来て欲しいが、明日で終わってしまう。しょうがない。ものごとには終わりがある、必ず。それが早いか遅いか、それだけだ。永遠なんてどこにもないのさ。

ウィトゲンシュタイン、あいつと過ごした一年が終わる。ウィトゲンシュタイン、という人物と付き合いながら、ルートヴィヒ、という人物を創造した。長い長い時間がかかった。ずっと一緒にいた。

そして今、去ってしまう奴のことを思う。気難しくて寂しがりやで気性が荒くて面倒くさくて、しかし愛すべきやつであった。もう当分会わないだろうね。君には随分苦しめられたものだ。だけどそれは、決して僕が君を嫌いだったからではない、むしろ今でも好きさ。だけどしばらくバイバイだよ。むしろ今の君とは一生バイバイだ。もう一度会うことがあるとしたら、君はまた一つ別人になっているのだろう。僕もまた別人になっているのだろう。テセウスの船の故事を思い出せ。あれはただの思考実験じゃない。現実だ。

潮時とか、頃合いとか、タイミングって言葉があるのさ。傷つけあって生きるより、なぐさめあって別れよう、なんて言葉もあるくらいで、世界にはかなわないこともあるのさ。

僕は演劇に魂を売ってしまった。売らざるを得ないのさ。僕には才能がない。僕はもともとは、読書が趣味でもないし、クラスの人気者でもないし、人より色男というわけでもないし、才能のカケラもない。才能のない奴が何をしたらいいのか? わかりきってる。食らいつくような努力、それしかない。だから僕は、捨てなければならないものが、多すぎるのさ。それだけさ。

しかし難しいところだぜ。僕は演劇に人生を賭ければ賭けるほど、不幸にも、孤独にもなっていく。きっとウィトゲンシュタインならわかってくれるはずだ。あいつは哲学を真剣に、人生を賭してやり過ぎたために、一生を哲学に費やした。同じことさ。ウィトゲンシュタイン、あいつの孤独を思うと、涙があふれる。

* * *

以下ネタバレ。まだご観劇でない方や、出演者、スタッフ、その他もろもろは、千秋楽が終わるまで、読むのを待ってくれ。

今回、『従軍中のウィトゲンシュタインが』を書くにあたって、僕はひどいスランプと精神喪失の中にあった。ひどいものだった。3年半ぶりに心療内科に通った。デパスを飲みまくった。久々に腕が上げられないほどの鬱を食らった。忘れもしない2月20日、スタッフミーティングがある日に僕は、完成台本はおろか、確定プロットすら作れていなかった。ただ、迷っていただけであった。うろたえていただけであった。しかしそして手ぶらで打ち合わせに行く僕は、最低の人間であった。もちろん怒られた。当たり前だ。僕が悪い。だけど僕は、他に選択肢がなかったんだ。

だけど僕は書き上げることができた。不満足が一つもないとは言わないよ? でも、書き上げることができた。それはひとえに、支えてくれたスタッフと俳優と制作陣とお客さまとファンの人びとのおかげだった。とりわけ彬、お前だったのさ。

今回、観てもらった人にはわかると思うけど、ルートヴィヒとピンセントの友愛物語が核にある。彬くんは僕の親友だ。残念ながら今のところ彼のアナルは開発していないし、俺のアナルも彼によって開発されていない。もう一つ付け加えると、俺は彼のアナルには興味が無い。だが、彼は、僕にとってのピンセントであった。

台本を書いているとき、彬のことを考えた。あいつが参加してくれる公演なんだから、きちんとやらなきゃ、と思ったし、俺が面白いと思って書いたことは、どんなにアンチポップでも、どんなにキャッチャーでなくっても、俺が本当に面白いと思っているものを書ければ、世界のすべてが敵に回っても、彬だけは「面白いね、いいね谷くん」と言ってくれるに違いない、と思ったし、逆に、彬に読ませて「おい谷、これはだせえよ」と言われるものは、書きたくなかった。彬が俺のピンセントだった。

世界のすべてが真っ暗闇で、だけど彬は、あいつだけは、今、僕を理解してくれる奴だと思った。ほとんどこれは、恋愛感情に近い。誰かきちんと、絶対的に肯定してくれたり、絶対的に否定してくれたりしてくれる人がいるということ。ああ彬。

だからルートヴィヒとピンセントの会話は、書いていて楽しかった。俺と彬のことを書けばいいだけだ。俺が「こんなこと思いついた」と言えば、彬はきっと、それを「面白いね」と聞いてくれるし、もっと押し進めてもっと面白くしてくれる。彬は俺以上の演劇人だ。残念ながら男色の趣味がないので、僕は彬くんとルートヴィヒくらいに親密にはなれないが、僕たちはいつだって話せる、それは確かだ、はっきりしている。

アーティストにとって一番大切なことは、絶対的な肯定者がいるということなのだ。彬くんが女だったら確実に惚れているだろう。女だったら! でも逆もやっぱりあるわけで、とある女優に、私が男だったらよかったのに、と、そういうことを言われ続けた。「愛は距離と時間に反比例するべきである」から、セックスは重要ではないのだが、しかし人間はセックスを要求してしまう動物だ。距離と時間があればあるほど愛が強まり、安らかになる、なんてことはない。離れれば離れるほど悲しく、つらく、恐ろしくなり、人は路頭に迷ってしまう。

彬くんと次にご一緒できるのは、来年の1月になりそうだ。

* * *

他の共演者もすごい。「も」とか、「も」で書くのが申し訳ないほどに、すごい。いい座組であった。

ルートヴィヒを演じた西村くんは、あれはもうなんつーか、それこそ天才なのだろうね。その場にいて、やることをやる、やれないことはやらない、自分に正直、しかし高みを目指しているのは確かで、ストイックでもある。今回、与えられた役柄があんまりにもとんでもないから、四苦八苦もし続けているけれど、他に誰があれを演じられた? そして彼にとっても忘れられない役になってくれていることを願う。そしてしばらくの後に、また何かの現場でご一緒したい。

ベルナルドを演じた伊勢谷くんは、あれはもう不器用の塊みたいな人だが、僕には出せない、持っていない愛嬌や技術やポップさを持っている人で、学ぶところが大変多かった。畑が違うからだ。今回、一番ダメ出しをした一人だと思う。はっきり言って、いろいろと、ダメ出しはあった。でも彼は、力の限り考えて、自分なりのやり方でそれを解決しようと、悩み続け、もがき続けた。それがあの人の美しいところだ。手抜きがない。手抜かりがない。そしてそれは、俳優にとって一番大事なことじゃないか?

カミルを演じた井上くんは、まぁクソヤローのミソッカスなんだが、僕が大変尊敬する演劇人である。あと1年出会うのが早ければ、みたいな人はたくさんいるが、彼がその筆頭だ。今回、一喜一憂、七転八倒、大変だろうが、僕は彼にカミルをやってもらえてよかったと思うね。

スタイナー隊長を演じた榊原さんは、神である。僕はあの人に頼ってしまった。あの人を利用してしまった。あの人の持っている技と魅力をお借りしたというのが本当のところだ。だけど彼は、彼なりに、そしてあるいは俺以上に、演劇を愛し、楽しみ、ストイックに立ち向かっている。だから彼はあの凄まじい存在感を得られるのだ。僕の方こそ学ぶことが多かったが、それでも演出家のビジョンに寄り添い、お客さんとのやりとりを大事にしてくれた。いい男だし、いい俳優だ。もし僕が女に生まれ変わったら、この座組なら彼と結婚する。西村くんと伊勢谷くんを預かる度量は僕にはないし、井上さんはバカだし、彬くんはバカなので、嫌だ。隊長と結婚したい。

というくらいには、座組への愛も情もあるつもりだが、まぁみんな、俳優としてはまだまだ発展途上ではある。ダメ出しだってまだまだあるよ。どうして毎日、一番いい演技をしないんだ? 観る度に思う。お前らはもっと面白いはずだろう? でもそれはもちろん、演劇の難しさを八つ当たりされているだけだ。本当にいい俳優たちと、お芝居をやれている。みんなにキスして回りたい。僕のこの、ウィトゲンシュタインを演劇化するという、無謀な企みに参加してくれて、本当にありがとう。結果的に僕は作品として成功だったと思っているが、それは結果論だ。あんな、成功とも不成功ともわからん段階で、よくぞまぁ受けてくれたよ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

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なんて感傷を垂れ流すのはださいんだろうけど、まぁ今晩くらいは許して欲しい。僕にとって今夜は、とても大事な夜なんだ。一生に一度しか訪れない、大事な、空白の、空虚の夜なんだ。世界すべてに幸せを届けようとして僕はこれからも生きて行きたい。

そして文章を書き終えることを、恐れている。この酔っぱらいの殴り書きを止めてしまったら、僕の存在は停止してしまう気がする。僕は、一体何だったんだろう?

僕はどこにもいない。僕はどこにもいなくなってしまった。しかし僕は生きている、演劇というフィールドにおいて。演劇にだけは不誠実でありたくない。一番付き合いの長い友人兼恋人になってしまった。僕の人生の半分以上が演劇になってしまった。僕マイナス演劇はマイナス200点くらいになってしまった。演劇と今さら別れられない。これはあれか、惰性で付き合っているという、あれか? いや違うよ。だって今でも、奇跡的なステージを見た後には、震えるもの。自分のお芝居でお客さんが喜んでいるのを見ると、生きていてよかったと思うもの。

* * *

僕は今、煙草を吸っている。これがすべての間違いだ。煙草なんか吸うもんじゃない。死を早めるだけだ。

まだわからないけれど、最近ちょっとわかってきたのは、死が終わりや末端や悲しみというだけではなく、一つの救いであるかもしれないということだ。ちょっと前までは、死なんてナンセンスだと思っていた。3年半前に自殺を考えたときに、思いとどまることができたのは、当時僕を支えてくれた人びとの力もあるけど、人生に未練があって、生きてさえいれば何でもできると信じて疑わなかったからだ。

今はそうではない。今の僕はまだいくらでもやれると思っているけれど、50になった自分が自分に絶望している光景を創造することは、簡単ではないが不可能ではなくなった。自殺に必要な要件は二つだけで、一つは絶望が希望を上回ったときであり、もう一つは自分より他人が大事と思ったときである。僕は前者については懐疑的だが、後者についてはちょっとわかる。今の僕は、自分も大事だけど、自分を支えてくれている人びとを、死ぬほど愛している。

さきほど俳優紹介で言及しなかったが、伊藤さんは神だし、野村さんは親友だし、小野塚さんは現場の女神だし、バネちゃんは現場のアイドルだ。いや小野塚さんがアイドルでバネちゃんがぬいぐるみかもしれない。わからない。バネちゃんのことはとくによくわからない。でも小野塚さんは、モリー・スウィーニーと、ヌード・マウスと、今回のウィトゲンシュタインとご一緒してみて、本当に大事な仲間だし、一目置く人だし、のむさんは殺したいけど僕にとって必要な人だし、伊藤さんは結局神だ。みんな、ありがたい。僕みたいなダメ人間がきちんとお芝居ができているのは、すべて彼らのおかげである。

* * *

明日はどっちだ? わかるか、そんなもん。ただ、本当に絶望したら死ねばいいし、まだ少しだけでも希望があるならすがりつけばいい。大変に、整理がついた。僕は孤独だ。でも、だからこそ、考えられることが、たくさんある。

ここまで読んでくれたバカヤローに一言だけ言うとしたら、ぜひ、従軍中のウィトたんを見に来て欲しいということと、僕をどうか育てて欲しいということだけだ。僕は壊れた機械だ。死んじゃえばいい。しかし明日もまた頑張る。なぜなら俺は、俺自信より演劇や周囲を愛しているからだ。

演劇はすさまじい芸術である。生半可な関わり方をする奴がいたとしたら、死んだ方がいい。いやむしろ、俺が殺してやる。つーかその前にやめればいいだけだけどさ。ただ僕たちは、刃の上で踊っているんだということは、忘れたくないね。

そろそろ僕の、ほんとうの意味でのブレイクスルーが、来る気がしている。彬くんと遊びたいなぁ。一緒に現場にいたけれど、ほとんど遊べなかったなぁ。あと今回の全員とまた別現場でご一緒したい。