PLAYNOTE 従軍中のウィトたん、あと4日、7ステージのみ

2013年04月04日

従軍中のウィトたん、あと4日、7ステージのみ

[公演活動] 2013/04/04 01:26

Théâtre des Annales『従軍中のなんちゃら』、あと4日、7ステージで終了です。ぜひ、多くの方に観て頂きたいお芝居です。ウィトゲンシュタインの部分より、僕の部分を観に来て欲しい舞台だし、もっと言うと僕の部分より、俳優を観に来て欲しい舞台です。

以下、孤独と自由に関するメモ。

以下、本物の方のウィトたんが書いた一文より。

私は世界の出来事を私の意志で左右することはできない。私は完全に無力である。
ただこのような仕方で、すなわち世界の出来事への私の影響を断念することによってのみ、
私は世界から私を独立させることもできる。そして、ある意味で世界を支配することもできる。

ここでいう「私」とは、動物としての「私」でも、物質としての「私」でもなく、語り得ないもの、つまり世界の限界としての「私」であります。僕はこの感じ、よくわかります。それはJ-POPで言うところの「僕こそが世界の中心」「総ては捉え方次第」というのとほぼ同義です。またJohn Lennonの言うところの「Nothing's gonna change my world」状態に近い感覚です。

しかし明日には僕の魂という名の部屋は真っ暗になっているかもしれません。

* * *

今回のお芝居では、おそらくもう4年くらいかかずらわっている「ナマ」であることの延長線上にあります。『プルーフ/証明』でやってたような、俳優の自由について。『4.48サイコシス』でやってたような、現前性の圧倒的なリアリティ。『国道58号戦線異状なし』でやってたような、ランダム性。『Caesiumberry Jam(再演版)』でやってたような、質感と無音の重さ。そして『モリー・スウィーニー』でやってたような、暗闇と想像力の表現力。そして彬くんから教わった、「俳優が見たもの全部お客さんにも見えてる」理論。

一言でまとめるとどれも、演劇の現前性に関する視点と、俳優というエネルギー体が持つ力への信頼、に、帰結するのでしょう。それはウィトたんの言葉で言うと、「語り得るもの」の範疇に入るものです。つまり僕が意識的にやっている執筆や演出は、実は効果的ではあるけれど、僕にとっては外部の世界に属するものであります。(この辺、説明不足は重々承知ですが、まぁいいや)

そういう意味では、僕の無意識がやった仕事こそが、今回の意義なのだと思います。何でこういうことになったんだっけ? そこがわからない。そこにこそ、僕の未来を占う何かがありそうです。

しかしいずれにせよ、僕はやっております。一つの舞台をやっております。一つの、とっても個性的で、きっとあなたの魂の扉をノックするお芝居をやっております。僕自身、僕が作った作品に、魂のドアをノックされて、はっとしました。まだ開けてない扉が、まだまだあるようです。だから毎日がとても楽しい。演劇を、やっている。この感じ。

なんだか『完全版・人間失格』を思い出すなぁ。そして『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』を思い出すなぁ。この先、今まで以上に、執筆と演出は大変になるだろうな。でもそれを選んだのです。演劇を一つの生業として捉えるのではなく、演劇をウィトたんの言うところの「倫理」や他の哲学者が言うところの「実存」に起因させること。4年前くらいまでの僕は、無意識に、そういうことをやっていたんですね。だから実は、『モリー・スウィーニー』や『Caesiumberry Jam』ですら、手クセの演劇だったわけです。

ああ難しい。難しい。僕には価値がない。僕そのものには価値がない。しかし、今回は、俳優とスタッフとお客さんの力で、無価値から有価値への転換が行われています。だから明日も楽しみなのです。ぜひ、観に来てね。