PLAYNOTE 語ること、演じること、その他メモ

2013年03月27日

語ること、演じること、その他メモ

[公演活動] 2013/03/27 01:22

明日から小屋入り、Théâtre des Annales『従軍中のウィトゲンシュタインがどうしたこうした』。稽古場でいろんな話をしている。今日はチェチェンの首切り動画について話したり、片岡仁左衛門の魅力について話したり、演じること/観ることについて話したり。いくつかメモ。

語る。

語るってのは、断面図を作ることに似ているね、なんて話をしている。僕が例えば自分のじーちゃんについて語るとしよう。じーちゃんは警察官であった。じーちゃんは剣道の有段者であった。じーちゃんは納豆が好きだった。そうやって言葉を並べても、それは僕に見えたじーちゃんの横顔を語っているに過ぎない。「演劇とは」なんていくら語っても、せいぜいが一つの断面図を描いてみせることに過ぎないんだよね。

演じる。

今日は稽古場で、ひたすら「やりすぎない」「つーか何もやらない」ということがテーマになっていたりした。俳優が丁寧に「この人はこういう人ですよー」って演技をしちゃうと、そのひとは「そういう人」にしか見えなくなっちゃうし、「こういう人ですよー」ってやっちゃうとすっごくわかりやすいから、見ていてお客さんが頭を使わないんだよね。

きちんと謎や矛盾や神秘を秘めて、ただそこにいる、ということの重要さを、今回ほど感じる現場はない。つまり「こういう人ですよー」「今こういう感じですよー」って演じちゃうことは、上に書いた「語る」=「断面図を描く」ということと限りなく近い。お客さんは断面図を観に来ているんじゃない。存在そのものや奇跡を観に来ているんだ。

ウィトゲンシュタインについて。

ここ一週間くらい、ウィトゲンシュタインについて稽古場で話していない。語り尽くした、というわけではない。台本はもうとっくにあるわけだから、「どうやったらもっと演劇として/お芝居として面白くできるか?」ということだけが、問題になっているからだ。僕はたまーに脳内で、査読のようにチェックをしているときはあるけれど、基本的にはイチ観客としてチョコンとイスに座り、面白いねそれ、とか、それはつまんない、とか、そういうことをぼやいている。

もう一度、演じる、ということについて。

以前山崎彬くんがこんなことを言っていた。「演出家なんて結局、観て感想言うくらいしか、できないからねぇ」。驚いた! 彼はきちんと「演出」をする演出家だから、そんなに謙虚に物を言うなんて、って。でもその後続けて、こうも言った。

「俳優がやったものしか、舞台上にはない。やったものしか、ない。おお、当たり前だけど、これ、ホントそうだね。やったものしか、ない」。

つまりもう、僕がコチョコチョ演出「操作」できることはなくなってしまっている。ミザンスもとっくについてるし台詞は2週間も前に入っている。あとは俳優が「やる」だけである。「生きる」だけである。その結果がお客さんに届き、その結果で僕がお前の本は面白いとかつまらんとかいい演出したねとかやり過ぎだよバカとか言われるわけだ。僕の魂、命綱は俳優に握られている。俳優は僕の檻の中にいながらもいかに自由にリラックスしてのびのびと生きるかにかかっている。檻を壊そうとして壊しちゃいけないけど、俳優が自由と生命を手に入れると、檻なんかないように見える。そういうときが、演劇の奇跡なんだなぁ。

みんなもう、10年も前からわかっていることばかりだ。ばかりだけど、今でも大事。と言うか、それしかない。いろいろと理論武装と理屈の厚化粧はできるけど、結局はさ、演劇はずっとずっと、少なくとも2500年くらいはずっと、同じことを続けているんだ。一番新しくって、一番古い芸術なんだね。

演劇をやるってのは、謎を解くこととはちょっと違うんだな。謎を謎のまま受け入れるということなのかもしれない。謎を解剖して、断面図を作って、わかったようにしちゃうと、謎の豊かさと神秘はなくなってしまう。謎を謎のままやればいいんだな。

だから最近、僕は現場で、「それ! よかった!」というときに、「演劇的にセクシー」という言葉をよく使うのかもしれない。いい/悪いなんて結局は主観に過ぎないのに、何かホントにいい/悪いがある気になっちゃう僕ら。でも「セクシー」はすげぇ主観だなそれってすごくよくわかるし、同時にとても褒められている感覚もある。そうなんだ。セクシーな演劇を作りたい。

明日は小屋入り。頑張りますっっ。ぜひぜひ観に来て下さいませ。稽古場でチェチェンの首切り動画観て全員で「観なけりゃよかった……」と後悔しつつも、必要あらば何でもやるぜともがいておる僕たちです。