PLAYNOTE 人間失格稽古進捗2

2012年10月19日

人間失格稽古進捗2

[公演活動] 2012/10/19 00:54

僕は一人シリアスである。ほとんどノイローゼのように考え続けている。

今回、稽古がとんでもなく大変である。僕の決め台詞、「絵は見えている」が、ほとんど通用しない。ふつう、台本読んだ時点で、あ、これはこうしてこうだな、ここはこうしてこうよね、と、稽古に入る前にはほとんど「見えて」いるんだけど、今回はそれが通用しない。

「見えて」持っていった絵は、大抵成功しない。最初はそれは、円形だから、完全360度囲み舞台だからだと思っていた。ようやく、そうじゃないということに気づいた。選択肢の幅が、広すぎるのだ。

台詞回し一つとっても、音とリズムのセリフ回しも選べるし、現代口語演劇的な日常の台詞回しも選べる。
対話のスタイルをとっても、1対1のリアリズムベースのやりとりも選べるし、デフォルメしたトメハネの大きな演技スタイルも選べる。
テンポだって、間の重たさを使うシーンもあれば、速射砲のように密に台詞を重ねることもできる。
モノローグだって、ひとりごとにもできるし、語りかけにもできるし、「独白」にもできる。
ミザンスだって、直径10mの円の中、正面がないから好きなように置けるし、配置も無限大。

ふつう、下手奥と上手奥にハケ口があって、下手前にテーブルがあって、舞台下手側には段差があって、という時点で、ある程度ミザンスの正解は導かれる。観客の視線の誘導の仕方や、緊張感における集中と緩和、想像力の発散と集約、立ち位置、もろもろ、直感と理詰めで大体正解は出てくる。しかし今回は完全に自由。動ける俳優がたくさんいて、可能性も膨大にある。

バッと構図を作って、統一して指揮して、号令かけて、そういうやり方をやったこともあったし、ルールと回路をシェアして、俳優の自主性にゆだねて生まれるうねりを追い掛ける、そういうやり方を選んだこともあった。今回は、とにかく人の猥雑とランダムと不秩序を描きたいので、やり方としては後者、ルールと回路をシェアして俳優に考えてもらうことが必要なんだが、円形舞台で陣形がないと、圧や密度がどんどんまばらになって、絵がまったく締まらない、そういうことになってしまうと、人間の生み出す暴圧というものに全くリーチできない。

なので稽古場でバカみたいに返し稽古を繰り返している。全くもって、効率が悪い。自宅で図面に○と□で人の立ち位置と道具の置き位置決めて、稽古場でそれをトレースする、というやり方が、全くできない。何だか底なし沼を泳いでいる感じだ。

今ようやく、これはいいんじゃない、というミザンスが少しずつ固まりつつあるけれど、それだって全部ぶっ壊して全然違うやり方でやれと言われたら、できる気がする。それくらいに自由度が高い。

ふつう、どんな表現でも、制約と枠がある。それに背かず、うまく利用するのが表現におけるセオリーだ。水墨画に水彩絵の具ぶちまけたからといって表現力は上がらないし、油絵を3Dにしたからって深みが増すわけでもない。つまり、制約こそ表現の最大の武器でもあるわけだ。

今回は「円」という制約があるにはあるが、実質ほとんど無限大で、演出席を一つ隣にズラしただけで違う風景が始まってしまう。かと言って、一対一の人間関係を描けばいい芝居でもない。一対多、を描くにあたって、構図や配置や統制はどうしても重要なのだが、構図と配置と統制を強めすぎると、つまり「揃い過ぎる」と、急にダメになる。大変に難しい。

という悩みの大半は、今日、葉蔵と並んでもう一人の主役であるヨウゾウが登場したことによって、随分緩和されたが、まだまだ道は長い。稽古で使う頭脳があまりにイタ過ぎて、ほとんど毎日へとへとである。9時間稽古したくらいで疲れる俺ではないはずなのだが、使う頭脳の容量が大き過ぎて、さすがに。まぁ明日も頑張るよ。

* * *

もう一つ。初演と大きく書き換えたラストについて。これは恐らく、
人間失格の真っ最中であった自分(2009年~2010年5月頃)
人間失格を卒業しつつあった自分(2010年5月~2010年12月頃)←初演・人間失格
人間になった自分(2011年以降)←完全版・人間失格
の違いによるものであるのだな。と。

初演・短編版の『人間失格』を翻案していた自分は、完全に失格人間であった自分から、生活者としての真人間に成り変わりつつある境目にいた。今の僕は、どう見ても真人間である。アル中でヤニ中の、ちゃらん村ぽらん太郎くんであることには違いないが、今や妻帯者であり、納税者である。恐ろしい。人間になってしまった。

よかったじゃない、真人間になれて。なんて簡単に言えるものか。失格人間たちは、世間なれした真人間たちに手痛く傷めつけられて、どれだけ傷つき、心折れたことか。僕にもまだ、真人間を憎む、ずるくて臆病な、保身とポジショントークの上手なご機嫌取りを恨む気持ちはひしひし残っている。しかし今の僕は、健康を気にしてランニングを始めたり、世間体を気にして年金を払ってみたり、付き合いを気にして飲み会に足を運んだりする、あの嫌らしい真人間の胡散臭さが忍び込みつつある。世間に居場所を得られなければ、演劇でロックも奏でられないのだから、日本という世間で生きるしかないのだが、そのためには胡散臭いことをたくさんやらなければならぬ。実に気色の悪いことだ。何と言うか、正義がめきめき、声を上げる瞬間があるんだな。明日を生きはじめた自分は、今に誠実でない気がする、そういう瞬間がたくさんあるんだな。

実に理解し難い感覚であると思うので、どう演劇に乗せきるか、今も四苦八苦している。ある種のデフォルメや隠喩になってしまうのは仕方がないだろう。だが結局、一つの作品を作るということは、そういう自問自答に答えを出すこととイコールなのである。なのでまだまだ悩み続ける。演劇という魔法の空間でくらいは、そういう青臭い悩みを悩み続けたい。日常という下卑た空間では、俺はNHKの受信料を払うし、世間とバランスをとるやり方を必死に探し続けている。

結局のところ、太宰治もまた、そういう、生活と芸術の間で身を切るような自問自答を続けた人であった。ヴィヨンの妻、桜桃、斜陽、人間失格と、晩年の作品にそれは明らかだ。