PLAYNOTE アフタートーク芸人としての私(アマヤドリにて)

2012年09月11日

アフタートーク芸人としての私(アマヤドリにて)

[演劇メモ] 2012/09/11 04:52

今日はひょっとこ乱舞あらためアマヤドリの新作公演『フリル』のアフタートークに出演してきました。爆笑とれてよかったです。

自分で言うのも何だが、アフタートークは得意分野で、もうどんどん呼んで欲しい。いつ頃からか「アフタートーク芸人」を自称しており、どんなシビアな状況でもそれなりにトークを盛り上げてきた自信がある。

先だっては『カフカの猿』という大女優キャサリン・ハンターの一人芝居で、「一人芝居なのに主演のキャサリンは舞台にいません」という壮絶にシビアな状況の中、徳永さんとマンツーマンで華麗なる芸人っぷりを繰り広げ、「トラムで爆笑をとる」という俳優やっててもなかなかできない貴重な体験をさせて頂いた。しめしめ、と思った。

作品内容で変な迎合やご機嫌取りをしたくない分、アフタートークや取材なんかは、猿回しの猿に徹して、バナナでも大量ワサビ寿司でも食ってやると腹を決めている。写真撮影だろうが座談会だろうが、ヘンテコな露出が多くても全然気にならない。そういう余白部分できっちり道化を演じる代わりに、内容については一歩も譲らないよ、許してね、そんな密約めいた取り引きが、自分の中で成立しているんだな。作品内容というテリトリーを守るために、できる労苦は厭わないつもりだ。

アフタートークは、お客様のもの。お客様の好奇心や疑問をすくい上げ、これを作ったのはこんな人間なんですよ、と気取らず開陳してやりたい。たまに自分の演劇私見めいたものも喋りはするが、それだって「僕はこう考えた」というバネを使って、観客がまた別の視点で作品を考えるためのヨスガに過ぎないと思っている。今日のアマヤドリ『フリル』だって「貴様の感想を詳細に論評せよ」と言われたら90分は喋りたいものだが、そういう場ではないのだし。「そういう風に喋って」と言われて、そういう風に喋ったこともあるが、そう問われてそう答えるのは、それは立派なファンサービスだ。

僕だって、お客さんにとことん親切でありたいと思っている。だけどそれは、わかりやすさとイコールではないし、キャッチーさと同質ではないし、時には客席を不愉快にさせたり激怒させたりするようなシーンを作らなくちゃいけないときだってある。だから、アフタートークは、シンプルに発想ができて、楽なのだ。お客さんにとって、残ってよかった、聞けてよかった、そういうものを目指したい。

昔から、「こんな芝居、二度と観たくない」と思ってもらえるような作品を作りたいと思っている僕は、しかし観客を愛しているんだよ。

* * *

しかし広田さんの演出的挑戦には感覚がリンクする場合がとても多い。そしてあれだけ賢い人なのに、ろくすっぽ本音を喋らないというのも、見上げたものだ。まだ公演が続いているとは言え、今回の挑戦の成果・収穫・成功・失敗について、彼はもう何がしかを実感しているに違いないのに、それについては喋らない。当たり前だ、演出家だ、慈善事業やってんじゃない。ああいう実験をやった成果や収穫をタダで配って歩いたりしやしないだろうし、見当外れや失敗があったらそれは胸のうちにそっと潜めておくだろう。

34を迎えたという広田氏には余裕のようなものすら感じられて、この先どこに行くのか、ちょっと指を咥えて見ていたい。その足跡をメモ帳片手にこそこそ辿って、へへぇ、なるほど、こうやるとこうなんのね、こうするとこうなるんだ、と、ひたすらパクるのだ。こんなにお得な観劇方法は、そうそうないぜ。

なんて腹積もりはわかった上で彼は僕を饗応してくれていたのだろうが、またいつかガチンコの論争をしてみたい相手でもある。広田さんは長生きしそうだが、うっかり電車にはねられたり、階段から落っこちたり、動物園を逃げ出したクマに御徒町あたりでばったり遭遇してメガトンパンチを浴びせられたり、通り魔を止めようとして道路に飛び出し全然関係ないバイクに轢き殺されたり、悪くなった麦茶を飲んで下痢してそのまま半身不随になったり、冗談みたいな事件事故に巻き込まれそうなお顔をしているので、是非身辺には気をつけて頂きたいものだ。