PLAYNOTE 自転車事故と人生の終わり

2012年05月05日

自転車事故と人生の終わり

[雑記・メモ] 2012/05/05 07:44

昨夜のことである。

キャサリン・ハンター1人芝居のポストトークをノリノリでこなした俺は、ちょっと色々、考えていた。お客さんのウケが大層よかったのは、俺の力というよりはキャサリンの力であり徳永さんの力であったろう。んだども、カフカに関してこんなに語って、ウケる、ということに驚いていた。家に帰って、トークで話したことをさらに膨らませて、谷賢一流カフカ論でも夜の手遊びに書いてみようかしらん、なんて思っていた。

その後、渡辺源四郎商店『翔べ! 原子力ロボむつ』を観劇。コメディであり、コミカルであり、原発の話、と言うか、青森県と六ケ所村をモデルにした放射能廃棄物の最終処分に関する話であった。ハートウォーミングでバカバカしくて、よく構成されていて、しかし店主・畑澤聖悟氏も「悲劇はもう書かない」と仰っていたにも関わらず僕は、ひどく沈痛な気持ちで最後の方を観ていた。原発再稼働うんぬんって電力とか安全とかの話だけじゃなく、あの土地に10万年消えないゴミを押し付け続けているということだ。東京人は、発電所そのものだけでなく、処分場も遠く遠くへ押し付けて、涼しい顔で再稼働云々を魚民やスターバックスで語り合っている。

仕事と移動の合間合間には、今調べている某哲学者の本を読み、頭がフルスイングし続けていた。

そして小竹向原、駅を降りればぶっ壊れた水道みたいな豪雨である。カバンをシャツでぐるぐる巻きにして一応の防水を施した後、チャリに飛び乗って走る。ひどい雨なので、ひたすらに走る。うぜーうぜー交番の前を抜けて、環七沿いのざわざわ道から生活道路へ折れる。頭がフルスイングしているので、スピードも異常、ハンドリングも異常、自転車でドリフトでも始めそうなスピード感であった。

大きな坂道を下れば、家はもう目の前だ。ペダルを漕ぐ足を早め、考えを進める。解釈を拒み続けるカフカという作家の筆致について。それについて語り、観客席の興味と同意を得た私について。そこには断絶がある。カフカはイージーな理解や同意を恐らく毛嫌いした作家だ。自分の感じている苦痛や不安、孤独と、父親が感じている苦痛や不安、孤独と、それらは似てはいても完全な別物であり、そして似ている点よりも異なっている点にこそ/

足がペダルからすっこ抜けた。自転車のチェーンが外れたらしい。大きく前につんのめり、顎をハンドルに打つ、だが加速した車体はジャイロ効果がギンギンでそう簡単には倒れない。時速にして5・60kmは出てるだろう。世界はすっかりスローモーション、脳科学的に言えばセーブしていた処理能力がトップギアで体感時間が遅くなっている。頭に明日の現場のことがよぎる。手を怪我でもしたら大変だ! 車体と身体が大きく右に傾く。右足で軽く地面を蹴る、が、雨で滑る。重い円盤でもぶん投げるように重心を左に寄せるが、車体はバウンドするようにぶれて、俺はアスファルトに投げ出される。シャツを着ていればよかった! 人生ってこんな感じで終わるのかな。

結果、左の肘と右の肘、左膝を大きくすりむいただけで済んだが、あぁ、こうやって自分は死んでいくんだなと寓話的な感覚が心に残った。何かを考えている途中、何か仕事を手がけようとしている途中で、いきなり投げ出されるように死ぬんだな。まずい、と意識してから倒れるまでの間に考えられることなんて、何もない。気持ちの整理をするくらいで、考察や仕事の整理はつかないだろう。そうやって死ぬんだな。

何でも大袈裟に考えるのは自分の悪い癖だが、ぞっとする体験だった。齢30を手前にして、人生の結論が迫ってくる意識が最近強い。焦っているわけではなく、一番充実した仕事ができるであろう30代の自分をきちんと準備しなければならない。些事に拘泥することなく、大局を見据え、やるべき仕事を着実にこなさなければならない。やるべき仕事というのは、ジョブでもワークでもタスクでもなく、使命とか問題とかいう意味だろうか。いい表現が浮かばないが。