PLAYNOTE たとえばあるとき

2011年12月21日

たとえばあるとき

[雑記・メモ] 2011/12/21 02:20

たとえばあるとき、わたしは阿佐ヶ谷あたりのノラ猫だ。なかなかエサにありつくのも楽じゃない。とおくからたまに地震みたいなひくくてながい耳鳴りが聞こえてくるけど、わたしそれにかまってられるほど暇じゃない。角の豆腐屋がつぶれて、緑のレンガの山下さんがひっこしちゃって、背骨通りのサークルKではマスカラのお姉さんが辞めてしまったから、これっていうたしかな場所がなくなってる。あたまをふって、ひげをピンと立てて、アスファルトでもコンクリでも歩いていくしかニャイのだ。

たとえばあるとき、わたしはオフィス用のシュレッダーだ。仕事は簡単、右から左、もらった紙を飲み込んで切り刻み吐き出すだけ。毎日何時間だってできる。ただし夕方は危険だ。ちょっとしたことで、わたしセンチメンタルになってしまう。シュレッダーに感傷は要らない。

たとえばあるとき、わたしはおびえきった全自動カミソリだ。電池が切れたらただの箱だ。グリップ感がどんなによくても、何枚刃でも関係ない。洗面台の隅っこで水あかにまみれてただ息をひそめている。そんなとき、ヒゲを剃るのはとても難しい。

たとえばあるとき、わたしは地面から天井へ真っ逆さまに上昇する流れ星だ。大気を切り裂き、重力に逆らって、先は真っ暗闇と知りながらもぐいぐい登っていく流星だ。みんなわたしを奇跡でも目にしたように目で追っかける。ケータイカメラを撮りだして、あぁもう残念、撮れなかったちくしょう、と歯噛みする。たしかにあれは気持ちいい。明後日のことを忘れるくらい気持ちいい。でもわたしは、そんな流れ星があり得ないことくらい、わかっている。

そしてなにより重要なことだが、あるときたとえば、わたしは一卵性双生児のフライ返しだ。赤いプラスチックの取っ手、きらり輝く銀色のボディ、光熱にも耐えうる美しいカーブのフライを返しちゃう先端部分。フランスパンの置き場所を忘れたり、爪切りに怯えて背中を丸くしたり、シマウマとクマの沈黙を恐れて愛嬌らしく振る舞ってみたり、いろんな努力を重ねつつも、結局のところはフライ返しだ。フライを返す、そこが重要なところなのだ。そしてそれ以外は重要ではない。

しかしわたしは、怯懦するミックスジュースの長く伸びた影に、ただひたすら銀色の油を井戸に流し混み続け、黄色い漏斗と茶色いコートを自慢しながら道を歩いていく。黄色い漏斗と茶色いコートを自慢しながら道を歩いていく。黄色い漏斗と茶色いコートを自慢しながら道を歩いていく。

それはもう、二十二ヶ月くらい前の記憶に逆撫でられた、ゴムのボタンのほとんどとれたエアコンのリモコンなのだ。

(執筆中の作品、ヌード・マウスのためのエスキスとして)