PLAYNOTE IさんとNさんへの手紙

2011年09月22日

IさんとNさんへの手紙

[演劇メモ] 2011/09/22 05:35

メールの返信を書いていたら、超長くなったので、

  • 私信にするのは何かもったいない
  • そもそもこんな長文メールうざいし読みづらい
  • もしかしたら読者から意外なReplyくるかも
  • 最近引きこもりがちの俺に関する近況報告

などなどの理由から、ブログに貼っつけてみることにした。

* * *

今、調べてること、考えてることについて書きます。

最初は、自分と自分を取り巻く現実の不確かさについて、最近の僕がやたらめったらふわふわしてる、みたいなところが引っ掛かりとしてありました。そいつを心理学とか精神病理学としてではなく、脳科学として考えたい、という地点から出発して、興味深い事例をいくつか手に入れました。

随分前に、永井均さんという人の本をいくつか読んで、<私>という概念について学んだことがありました。独我論の一派と捉えられ勝ちですが、そうじゃねぇ、独在論だ、みたいな議論がもやもやあって、彼の議論は脳科学の見地も取り入れて入るけれど、基本的には哲学者の形而上学であり、今んとこあんまり興味はありません。

永井均さんに関するページ
http://www31.ocn.ne.jp/~hiro4/sophy/imyme.html

<私>と「私」、……すげー噛み砕いて言うと、「今ここにいる」自分(<私>)と、自分の身体や脳(「私」)の乖離が前述の「不確かさ」の一因であるとも言えるし、あるいは時間的なズレなのかもしれない。リベットという人がもう20年以上前にやった有名な実験で、どうやら人間の脳は時間についても随分と誤魔化しをやっているらしい、ということがわかっています。

リベット実験の簡単な説明
http://jinsei02.blog114.fc2.com/?m&no=77

さらに、これも有名な症例として、エリオットという仮名の患者に関する報告が面白い。前頭葉を損傷してしまったエリオットは、知能や記憶は全く正常なのに、計画を立てたり、重要性を判断したりすることが一切できなくなり、まともに社会生活を送れなくなってしまった。繰り返し書きますが、知能や記憶は全く正常なのに、計画や判断が一切できない。

そして同時に、無感動・無感情な性格になったというのです。精神病理学で言えば離人感という言葉で表されるだろうし、脳科学で言えば情動・感情を司る前頭葉の機能不全と言うことができます。

エリオットさんに関するページ
http://tmin.igakuken.or.jp/medical/09/frontal3.html
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/17912163.html

同様の症例として、20世紀最大の脳科学者の一人と言われている、ワイルダー・ペンフィールドのお姉さんが知られています。彼女に関する報告はちょっと資料不足で、感情面にどんな変化が起こったのか、この料理の例以外でどんな反応があったのか、よくわかりませんが。

ペンフィールドのお姉さん
http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/42/index-42.html

前頭葉の損傷で感情が阻害/疎外された人物として、……これは僕が以前精神病についてえらい凝っていた頃に知った事件で、映画にもなった有名な事件ですが、ロボトミー殺人事件の被告である桜庭章司さんの例を思い出します。

ロボトミー殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/lobotomy.htm

「世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこない。もはや俺は人間ではないのだ。生きている資格はない。こんなことになったのは、あの藤井医師のせいだ。あいつがチングレクトミー手術をしたせいだ。あいつを殺して俺も死のう。」

* * *

と、何となく説明しやすい部分だけ切り取って説明しましたが、他に無駄な知識だけ膨大に溜め込んでいて、知りたいことは何もわかっていません。

と言うより、知りたかったことは、もう大体わかってしまっている気がするのです。<私>とは一体、何なのか? もっと噛み砕いて言えば、心とは一体、何なのか? 心の中でも特に、意識/無意識で分けたときの「意識」とは一体何なのか?

リベット実験や他の神経学的な実験の数々から、現在の脳科学では、「心は脳の随伴現象である」という説が支配的になっているそうです。これはつまり、「心(意識)は工場(脳)から立ち上る煙のようなもので、工場(脳)の活動に一切影響を与えない」という立場で、「随伴現象説」とか「脳の受動意識仮説」なんて呼ばれてるそうです。

つまりは、自由意志は存在しない。ラプラスの悪魔とか決定論とか、そういうのと本質的には一緒ですが、言ってることの角度がちょっと違う。「お前が何考えようと無駄」であり、「お前が自分のアタマで考えてるように見えることは、実はその350ミリ秒前に脳内物質が決めちゃってる」であり、「お前が決断を下す前に、お前を支配している脳の中ではもう結論が出ている」ということです。

まぁそうなんだろうな、とは薄らぼんやり思っていましたが、脳科学的にそんな仮説があって、信憑性を増しつつあるということになると、薄ら寒い気持ちになります。今ここで、こうして考えている俺、意識、そいつがやってることはもう本当に無意味である、と。反論として、量子脳理論なんてのが提唱されているようですが、あんまり効果的な反論にはなっていないようです。

モリー・スウィーニーでの経験から、今見ている世界という奴は、脳が都合よく解釈し直した盲点と錯覚だらけの世界であり、「何を見るか」「どう見るか」ということは脳の仕組みに逆らえない、ということは理解していたつもりです。しかし、「何を考えるか」「どう考えるか」でさえ、脳に先手を打って決められている、というのは、真綿で首を絞められるような嫌な感覚があります。

* * *

知りたかったことはもうわかっている、と書きましたが、それは「脳科学的に言えば」という修辞のつくことです。そしてそれもまだまだ未解明なことが多く、研究途上であり、かつそんな研究途上の脳科学でさえ僕のようなパンピーが最先端の全容を正しく把握できるわけもなく、何もわかっていないのも同じ事です。ただ、これ以上、脳科学について突っ込んで考えても、収穫は少ないだろうという予感があります。

取材は多ければ多い方がいいので、これからも調べ続けるつもりではいますが、ちょっとすでに方向を失いつつある実感もあります。これから先、「もっと正確に脳を知ろう!」なんつってサイエンスとか原書で取り寄せて読みだしたりしても意味はないし、一般書籍として発売されているレベルの知識でさえ網羅し正しく整理するのは、これから脳科学を専門にして生きていくことを選びでもしない限り不可能なことだろうと思います。

恐らくこの辺で、脳科学的な方向性はあくまで補助輪として進めつつ、方向性を変えるべきなのです。つまりは文学的、人文学的なアプローチで脳と私を考える。僕の中での感覚として、理論としての曖昧さを並べた場合、

文学>哲学>心理学>精神病理学>脳科学

みたいな図式があります。自分の知識欲・好奇心として、どんどん右方向に寄ってきてはいたものの、もういい加減、左に大きくハンドルを切るべきだろうと思います。

文学は確かに曖昧なものを曖昧なまま扱うものですが、例えば一昨日のあの太陽の熱さについて記述するときに、やっぱり曖昧さで言えば

文学>実験物理学>理論物理学

という図式になるでしょうが、言わずもがな、文学だからこそ記述し得る太陽の熱さというものがあり(カミュ『異邦人』の冒頭なんか思い出しますね)、我々人類はずっと、(この図式上で言うところの)右方向へ右方向へと進む精密な検討を繰り返しながら、最後には一番左の問題をどう扱うかというところに回帰してきたわけですよね。

ちなみに文学より左側にあるのが一部の抽象的な絵画芸術であり、さらに左にあるのが詩であり舞踊であり音楽であり、僕はご多分に漏れず自分より左側にいるこいつらに延々長々嫉妬を繰り返しながら生きてきましたが、昔から戯曲は「曲」という漢字がつくように、そしてその作者を詩人として称えるように、よい戯曲は限りなく音楽に近い。さらに俳優の身体が重なった演劇という芸術は、もっともっと左に近づく可能性が秘められている。

* * *

脱線し過ぎました。Nさんが書いてくれた、「夢」をどう考えるか、という問題についても、率直に返答すると「超・知的好奇心をそそられる」「それについて調べたらきっといい素材になるだろう」「でもこれ以上調べるのは何か違う」という気がします。

どうやら夢という奴は、記憶の整理・定着に一役買っているらしい、ということは、この一ヶ月の間でどっかで読みました。ランダム発火と言うより、もっと的確に、今日体験した新しい知識について発火するんだとか。
※でもすんません、ソースがどこだかわかりません。

同様に、これは確かペンフィールドの実験成果の一つだったように記憶していますが、脳のある特定部位を刺激すると「腕が動いた感じがする」、それも「腕が動いたような感じ」じゃなくて「確実に今腕が動いたという実感」を被験者は得るんだそうです。記憶や回想ではなく、体験としてそれが可能らしい。この実験と夢との間に何か共通線が引けるんじゃないか、って気が、もやっともやっとしたりします。

しかし脳科学的にこの辺のことを解明することは、やっぱり右へ行くことなので、あんまり意味が無いのかな、なんてことを考えています。

* * *

そんなことを考えていると、本稿中で3回くらい名前が出てきたワイルダー・ペンフィールドという学者が、死ぬ直前に考えていたことについて思いが飛びます。ペンフィールドは実に実際的/臨床的に、脳に電極差したり解剖したりしながら脳と心の秘密について考え続けた人ですが、最後の最後で文学を書き出し、おまけに「心は脳の中にはないかも」「死んでも心は生きるかも」くらいのこと言い出しました。ご興味あれば下のリンクを読んでみて下さい。

松岡正剛の千夜千冊 ワイルダー・ペンフィールド『脳と心の正体』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0461.html

こういうこと読むと早計に「天才って最後はオカルトに走ったり狂ったりするよね」と思っちゃい勝ちですが、そういうことでもないんだろうと思います。ペンフィールドは熱心なキリスト教徒だったそうですが、彼の中で宗教と脳科学は人生の両輪足り得たのでしょうね。自伝読んでみたいです。

考えがまとまっていないというのは、こういうことです。少なくとも、主張や意見と言うべきものを自分は持っていない。でも、書きたいことはある。それを形にするために必要なのは、プロットであり、ギミックであり、ポエムであり、たった一行の台詞であり、たった一瞬のイメージなんだと思います。それを探しているところです。

つまりは、途中で引用した、「世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに……」、そんな断片、台詞でも場所でも関係性でも、それを探しているところです。