PLAYNOTE 秋になると

2011年09月13日

秋になると

[雑記・メモ] 2011/09/13 05:00

自動販売機のつり銭を取ろうとしてその老人が背中をかがめると、彼の後ろを全速力で一匹の犬が駆け抜けていった。老人は眉をひそめる。こんな夜中に、あんなスピードで走り去る犬なんて、半世紀以上生きてきてとんと記憶にないようだ。あれは本当に犬だったのか?

薄茶色の毛並みにじっとりと汗を滲ませながら、ようやく立ち止まった犬は考え込んでいた。次の角を右に曲がれば、きっとあの若いメス犬はいつものように眠っているだろう。俺のするべきことはその褥に潜り込んで、彼女の肌の匂いを嗅ぎとることではないか? しかし自分はそれでは逃げ方を少し変えただけで、このぞっとする幽霊の追い足から逃れることはできないだろう。

ある夜中、突然ふと目を覚ました若いメス犬は、主人のことを思って思案に暮れた。こうも不意に目を覚まして、そして理由もなく思い出された以上、あの人が今安らかに眠っているとは考え難い。野生の勘というのを彼女は信じていた。しかし鎖に繋がれた彼女は、ただただ声をかけてもらうのを待つ存在でしかあり得ない。詮なき憂慮、意味のない不安だ。

ページを繰る手を止めて、男は短く刈り込んだ髪の毛を撫ぜてため息をついた。俺は今、本を読む振りをしながら、その実、一文字も読んでいなかった。開かれたページの冒頭まで戻ってみて読み返せば、思った通り、すべてただ文字の上を上の空で目線を流していただけだった。男は先週の仕事のことを思い出していたのだ。点検箇所に不具合が見つかった、しかし彼はそれを放置し、一週間というもの冴える目玉をなだめるために酒を飲み飲み生きてきた。あの空調機器が壊れたら、会社にいくら損害請求が来るだろう。そして俺はどうなるだろう?

昼夜を問わず動き続けるエレベーターホールの空調機器は、生まれ故郷の工場のベルトコンベアーで隣だった、同じタイプの空調機器について想像を羽ばたかせていた。こうしてエレベーターホールに組み込まれたのは誇らしいことだ。何の心配もいらない人生だ。だがしかし、あの隣の空調機器は、今どこで何をしているだろう? しかし一体全体、私という空調機器は、どうしてこんなことばかり考えているのだ?

エレベーターホールは考えていた。自分を取り巻く世界について。本当にそれは存在するのだろうか? 毎日毎時聞かされている、乗降する人間どものおしゃべりを総合すれば、僕の外には広大無辺の大地と空と宇宙が広がっているらしい。疑いを挟む方が全く非科学的というものだ。エレベーターホールであるところの私は、そう、実に細やかに計算された、合理的かつ科学的な存在のはずだ。それがどうして外の世界を不安がるのだ?

そのときたまたま、あるビルの上空を漂っていた低気圧は、またしてもあの疑問に立ち戻って来ていた。俺は今、どこにいるんだ? あぁそうだ、豊島区西池袋の雑居ビルの上空で、辺り一帯に湿った空気を運び込んでいる最中であり、一昼夜かけて川崎の方から流れてきた。確かなことだ。しかしそれがどうにも不確かだ。自分の下にあるこの小さな雑居ビル、地球規模で見ればあまりに矮小であるこの雑居ビルの存在は目にも確かだし手触りにも確かだから、それを疑っているわけではない。ただ、どうして私はこんなところにいるのだろうか?

46億年の正確無比な回転を相も変わらず続けながら、地球はただただ考え込んでいた。この冷や汗を誰か止めてくれないか? 思い起こされるのは最初の生物、あの物質と生命のちょうど間、チリともゴミとも濁りともとれないあの小さな単細胞生物の原型が死んだときから、彼は少しずつ青くなり続けている。あの日死んだゾウリムシの子ども、行方不明になってしまった明るい瞳の三葉虫、ライオンに歯向かってあっけなく死んだあの愚かなコヨーテの少女、親から離れ親を捨てることで独り立ちをしようとしてまんまと失敗を続けているオランダの花売りの娘、私という大地を捨てて宇宙に飛び立ちそのままチリになってしまったピンボールが好きな宇宙飛行士。一つ一つの思い出が私に冷や汗をかかせ、どんどん私は重くなり、青くなり、寒くなり続ける。誰かこの回転を止めてくれる者はいないのか? 早くほら、人間の映画にあるように、巨大な隕石が落ちてきて、それでも映画とは違ってアメリカ人は核ミサイルの発射に失敗して、私はいつか粉々になるのだ。そうすればさすがに冷や汗なんかかかなくて済む。

自動販売機のつり銭が老人の財布に収まると、彼を取り巻いていた闇は一瞬で晴れ渡り、気がつけばオレンジ色の朝焼けが彼のよれよれのTシャツを染め上げていた。財布のジッパーが閉まる頃には、煙が空に消えるように、宇宙は一瞬で干上がるようにして消え去った。あとには何もない。