PLAYNOTE 今さら振り返る『モリー・スウィーニー』

2011年09月07日

今さら振り返る『モリー・スウィーニー』

[公演活動] 2011/09/07 02:19

実は書いてなかったので、すごい今更だが書いておく振り返り記事。

翻訳について

とにかく翻訳がスタートラインだった。自分は一応帰国子女ではあるが、と言ってもイギリスにいたのはたった1年だし、英文学者でもないし、英語力だけなら上の人間なんざごまんといる。しかし自分は作家で演出家なので、いくらか自信を持ってやれることがあるはずだ。それが、「表現でなく意図や感情を翻訳する」「演出意図を汲んで翻訳する」「現場でその場で修正する」の3点だ。

この3点に関して言えば、ひとまず成果は残せたと言っていいと思う。小田島恒志さんや松岡和子さんといった泣く子も黙るプロ中のプロから、長塚圭史さんや渡辺謙さんといった泣く子がもっと泣く演劇界の大御所からお褒めの言葉も頂いたが、一番怖かったのが何を隠そう出演者の相島一之さんであった。

「谷さんね、ここんとこ、ちょっとわからないんですが」

と穏やかに話し掛けてきたと思ったら、そりゃあもうどこまでも細かく台本の解釈を求めてくる。俺がうんうん唸りながら、あーでこーでと話していて、ちなみにですね、原文では……、なんつって原文との比較照合を始めると、誤訳が見つかる。そんなことが3回くらいあった。ちなみに相島さんは原文は一切見ていない。

俳優の勘というのは恐ろしいもので、「ここは言いづらい」「ここは心理的に繋がらない」と思っただけなのだろうが、そこに俺でさえ気づかなかった誤訳が含まれているとは! 翻訳だけを見て直感的に「ここだけちょい違う」ってところを嗅ぎ当てたわけで、正直、恐れ入った。果歩さんも語尾、言い回し、人称代名詞に到るまで細かくあれこれ言ってくれたが、いくら揉めても最後には演出家の指示通りに演ってくれる。顕作さんは自分で脚本も演出もする人だからだろうけど、ずいぶんフランクに応対してくれていたけど、しかしだからこそそういう人に台詞を振るというのはストレスフルであった。

『モリー・スウィーニー』の原文自体が大変な美文であり、豊かなイメージと繊細なディテールに彩られた素晴らしい戯曲であるから、おかげで俺の翻訳も随分下駄を履かせてもらった感はあるが、しかし脱稿までに数ヶ月かかっただけあって、なかなかに思い入れ深い本である。翻訳に関しては『プルーフ/証明』『4.48サイコシス』に続いて概ね高評価だったが、『モリー・スウィーニー』で一つの自信となった。もう一つ二つ、きちんとしたものを世に出すことで、演劇における翻訳の在り方というものを問い直してみたいという気持ちは今も強く残っている。

演出について

当初は「いかにこの長大なモノローグ・ドラマを、退屈させずに提供するか」ということ、そして「目の見えないモリーを取り巻いていた世界を、どうやって視覚化するか」ということに意を砕き続けていた。稽古の後半では、「いかに余計な要素を削ぎ落していくか」ということに方針が切り替わった。そして上演中に感じていたことは、「ちょっと親切過ぎたかな」という淡い反省だった。これは、下手したら3年くらいかかって気づくべきことをたったの1ヶ月半で体験したことになり、演劇の力について考え直すいい機会でもあった。

しかし、いい演出であったと思う。「親切すぎたかな」というのはあくまで結果論であって、戯曲の核をきちんと感じ、戯曲の声を聴き、素直に演出する、そういう意味では自分らしくもあり悪目立ちを控えており、いい塩梅だったと思いたい。ポップカルチャーか、ハイカルチャーか、その分類で言えば、ハイカルチャーに属する類の戯曲をポップカルチャー層に届ける努力をしていたわけだが、客層、値段、劇場、その他諸条件を考えても、いい塩梅の舵取りであったと思う。

もう何だか忘れかけているけれど、よく人に聞かれた2点ほど、1幕ラストのビニール幕振り落としと、2幕ラストの完全暗転はもちろん演出指示であり戯曲には書かれていない。1幕ラストでは、開眼手術を経たモリーが光の洪水の中で気を失いかける、というような内容で、それまで舞台奥半分を被っていたビニール幕の裏から膨大な量の照明を炊いた。光というものは何かに当たることで輝くものであり、半透明のビニール幕にぶつけたことで、そして1幕を通して徹底的に舞台の光量を絞っていたことで、光の洪水を感じる演出をやることができた。あれは、初めて見たときは、面白かったなぁ。

そして2幕ラスト、完全暗転の中でモリー役の果歩さんが舞台上のみならず客席通路まで歩き回る、という演出は、これは言葉にならない。「ふーん」って思うでしょう。劇場で聞いて、見て、ご覧なさい。真っ暗闇の中で(本当に文字通り真っ暗闇で、目が慣れても全く見えない)聞こえてくる物音、声、存在感、そういったものに感覚が開いた。技術的にも常識的にも結構ヤバいことをやってはいたが、自分にとってはスタンダード過ぎるやり方ですらあった。暗闇という特殊な環境は、人間の感覚を研ぎ澄まし、開いていく。終演後、ロビーや劇場内でしゃくりあげるような嗚咽をしていたお客さんが毎ステージ必ずいたが、あれもう一歩やり過ぎると本当に催眠術とかてんかん発作の一歩手前まで行っちゃうものであり、そういう危険もわかっていたが、概ね好意的に受け止めてもらえた。

スタンダード過ぎるくらいスタンダード、と書いたが、頂いた劇評に、こんな言葉があった。演劇ジャーナリストとして業界随一有名な徳永京子さんの劇評である(素晴らしく詳細かつ的確に、そして熱を込めて書いてくれた劇評で、今読んでも嬉しいし、背筋が伸びる思いがする)

 モリー役の南は、多くの人を魅了する盲人という点においても納得のいくものであったが、ラストシーンの完全暗転の中、鈴のような笑い声を立てて客席中を風のように走り回る運動神経において、谷の演出意図を完璧に形にしたという点で大成功のキャスティングだったと言える。このシーンこそ今作の予想外のクライマックスで、モリーが見えることから解放され、再び手に入れた彼女にとっての完璧な世界で圧倒的な自由を満喫する楽しげな様子は、彼女と共に暗闇を体験した観客が「モリーの幸福を自分は決して味わうことができない」と痛感する10分間だからだ。

徳永京子: 世田谷パブリックシアター「モリー・スウィーニー」 - ワンダーランド wonderland

ああ、ごめん、ここじゃなかった。でもここも嬉しい一節なので、載せておくよ。重要なのはこっちだ。

 これまでに観た谷の作・演出作品は、わかりやすい記号で飾られた露悪が目についたが、この作品で成功したように、今後はスタンダードな作品の深みを舞台上に乗せることにもエネルギーを注いでほしいと勝手ながら願う。こんなことを聞けばかえって過激なことをしたくなるのかもしれないが、中劇場、大劇場を演出できる次の若手として名乗りを上げるのも、なかなか悪くないと思うのだ。

徳永京子: 世田谷パブリックシアター「モリー・スウィーニー」 - ワンダーランド wonderland

今まで演劇仲間の俳優の先輩には幾度か指摘されたことがあったが、演出家・谷賢一の仕事は、ロックンロールだとか現前性だとか色々言いはするけれど、実際にはこの上ないスタンダードの積み重ねだと思っている。オーソドックス・イズ・ベスト、とまでは言わないが、ロックンロールの楽曲で、やっぱり最後はスリーピース/スリーコードのシンプルなエイトビートがイイように、演劇だってスタンダードをきちんとスタンダードにやるということは、無敵の力を持っている。『モリー・スウィーニー』も『犬と華』も『Caesiumberry Jam』も、とことんまでにスタンダードなだけである。だけである、って言っちゃうとおかしいか。スタンダードに発想しながらタブーなく創作する、本当、それに尽きる。今までの演出人生の中で、俺は奇を衒ったことは一度もないつもりでいる。

だらだらと長く書いてしまったので、この辺で終わり。どうせ書き尽くせるはずがないんだから。

俳優について

最高でした。今も彼らの背中を見ながらその先を見据えています。

その他

何だろう、時間が経ってから振り返り記事を書くと、何だか過去に固執している感じもするし、単なる自慢話や負け惜しみを言っているような箇所も出てくるので、さっとだけ書いて終わる。

最近よく、モリー・スウィーニー前後で変わりましたよね、なんて振り方をされるが、それはちょっと安易な鋳型に押し込め過ぎてやいないかい、と率直に思う。そりゃあ膨大に変わったし、膨大に元のままで、どの公演でもそれは同じ事だ。いろいろ豪華だったからといって、別にすべてに於いて特別だったわけじゃない。

一点、特別だったと思うのは、人間だ。前述のキャスティングに関しては今も一点の後悔もないし、この本と出演者を可能にした世田谷パブリックシアターの穂坂プロデューサーの力に負うところは本当に大きい。穂坂さんと俺と、文字通り二人三脚でやってきた企画だったし、プロデューサーの力というものをまざまざ感じる経験であった。権力、という意味ではなく、演出家が稽古場を豊かにするのと同じように、プロデューサーは創作環境全体を豊かにする、という意味で、確たる力を持った人であった。

スタッフ陣にも忘れ難い人が多い。全員の名前を挙げていると日が暮れてしまうし、一人だけの名前を挙げるのも何だか差別的で嫌だからあえて書かないが、決まり文句のように吐かれる「演劇は一人の力ではできない」というのを実感した作品であった。

それより何より、モリー・スウィーニーが俺に残した大きなものは、まだある。箇条書きでいいか。

  • モノローグ、あるいは言葉とどう付き合うか、という課題。あるいは可能性。
  • 客席とどう付き合うか、という課題。あるいは可能性。
  • 原作者のブライアン・フリールが俺に与えてくれた、視覚と知識、あるいは見ることと知ることの相関関係。あるいは、脳と認識、という問題。
  • プロであるとはどういうことか。ジャンルとしての小劇場と、蔑称としての小劇場。その中で生きている俺。

いろんなことだ。

2500名を超える多くのお客さんに観てもらえたし、俺が知るかぎりでは最大6回もリピートしてくれたお客さんもいた(元は小林顕作さんのファンだったらしいが、それを飛び越えて作品自体に惚れ込んでしまったらしい)。でも、一番あの作品を楽しんだのは、間違いないね、俺だったんだぜ。

ありがとうございました。

コメント

投稿者: (2011年09月21日 17:11)

モリースウィーニーの翻訳した小説は販売しませんか?

投稿者:Kenichi Tani (2011年09月26日 19:56)

予定はありませんねー。著作者が僕じゃないので。。。

投稿者:search engine optimization vancouver (2012年01月13日 06:50)

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