PLAYNOTE 谷崎潤一郎『痴人の愛』

2011年09月05日

谷崎潤一郎『痴人の愛』

[読書] 2011/09/05 05:47

今手掛けている小説の参考にと古本屋で買って読んだ。分厚いなぁ、だりぃなぁと思いながらページを開いたら、あっという間に読み終えてしまった。下手すると現代の作家より読みやすいんじゃないかってくらい平易な文章の間・間に、凄まじいまでのエロスの匂いが満ちている怪作。

セックスの描写はぼかしてあるので、官能小説として読むことは不可能だ。だが、セックス描写はまぁどうでもいい。あんなもん、始まっちまえば、そこまでのストーリーで大体の勝負が決まっている。むしろどうやってセックスに至るか、二人がどういう思惑で行為に臨んでいるか、そこがわかれば、あとはどうとでも理解できる。この辺の塩梅が実にいやらしく、うまい。

主人公の譲二とやらはナオミという女にぞっこんで、実にマゾヒスティックな関係を結んでいる。前半では匂わすだけだったこのマゾヒズムが、後半では臆面もなく開陳され、善良な市民であった譲二は一匹の性欲の豚に成り下がる。いや、違うな、豚じゃない。これこそ人間だ。

僕は昔から、人間同士が平等だなんてのは本当にお題目に過ぎない、あるいは平等にチャンスを与えられている我々の間で優劣が生まれることにこそ現代的な貴族意識や特権意識、プライドというものが醸成されるのではないかと思っている。こと性において平等というのは、小市民的には大変立派で喜ばしいことだ。しかし不平等な釣り合いの中に生まれる性の危うい悦びというものにこそ、つまりはどちらかがどちらかに服従したり、支配したり、媚を売ったり、足蹴にしたり、そういう中にこそ最も濃厚な性の感覚があるのだと信じている。

学もあり常識もあり仕事もあり、「君子」とあだ名されるほどの紳士である主人公・譲二は何故破滅したか。この小説を読めば誰もがすぐわかることだが、そう、彼はただ性の匂いに制圧されて、善良なる市民であることをやめたのだ。しかも嬉々として。谷崎の筆致は、そんな譲二を見下すどころか、淡々と共感させるような方向へ導く平然たる確かさを持っている。僕はここに、人間理性、あるいは人間悟性というものが、セックスという原初的な欲求に比すれば全く取るに足らない小さな力に過ぎない、近代的自我などと言ってしゃちほこばって歩いている我々もまた、リンゴ盗んでパコパコセックスしてた、はじめ人間から何も進化していない、そういう高らかな敗北宣言を読み取ってしまう。

つまり谷崎はマゾヒズムについて書いたわけでも、愚かな人間の一例を披露したわけでも、性関係における一つの異端を描き出したわけでもない。むしろ、性の前に敗北していく一般的な人間像そのものを寓話として描いたのだとさえ思われる。性という巨大な謎の前には、人間はただ飲み込まれ踏み躙られる虫けらに過ぎない。

非倫理的なことを推奨しているわけでも不道徳なことを励行しているわけでもなく、ただ、負け行く人間の姿を「だって当然じゃん」って感じで書いてるのが、たまらなく悪魔的で好きだ。マノン・レスコーに通ずる骨太さがこの小説にはあるが、骨太っつってもその正体は単なる性欲と、人間の被支配欲なのである。

あぁ、面白かった。馬鹿が滅んでいく姿を見るのは実に痛快である。どんなにその馬鹿が自分に似ていたとしても。

コメント

投稿者:kyoko (2011年09月05日 21:27)

性欲って、本能中の本能ですもんね。

私は谷崎の作品の中で、『痴人の愛』が一番好きです。

なぜか、読んでて気持ちいいのです・・・