PLAYNOTE C.B.Jam2 終了

2011年08月29日

C.B.Jam2 終了

[公演活動] 2011/08/29 23:36

Photo by 青木司

DULL-COLORED POP第10回/活動再開記念公演『Caesiumberry Jam』、全日程終了しました。いろいろ書き残しておきます。

内容的なこと(どうでもいい)

大変な好評と大入の中で公演を終了できて、だがしかし逆説、俺の中では何かが分裂しかけている。生まれついての天邪鬼だから、というわけだけじゃなく、今回はとにかく、酷く冷静に舞台を観ていた自分がいるんだ。

この作品はきっとお客様の中に何がしかの感動や怒りを残すことができただろう。でもそれが何になるんだ? という違和感もある。劇中でゴゴという人物にこんな台詞を吐かせている。

「どうして出版しなかったんだ? チャンスはあったはずだよ。誰だって知りたがる。あの土地で何が起きたのか。過去の教訓を未来に活かすこと。世界は弁証法的に発展していく。お前もどこかに書いてたな、同じ過ちを繰り返さないために目を伏せてはならない真実がある。そうだろう?」

(『Caesiumberry Jam(再演版)』四幕一場より)

ここで言う「過去の教訓を未来に活かすこと」「世界は弁証法的に発展していく」「同じ過ちを繰り返さないために目を伏せてはならない真実がある」という言葉たちは、ひどく薄っぺらで意味のない言葉の代表として列挙されている。人間は、過去の教訓を未来に生かしていない。世界は弁証法的に発展して行かない。同じ過ちを繰り返さないために目を伏せてはならない真実には、大抵、誰も、目を向けようとしない。

Caesiumberry Jamはチェルノブイリのお話だった。書いたのは四年前。完全にチェルノブイリという単語が歴史の教科書レベルの、むかし、むかしのお話だった頃だ。主人公は現地を取材したが、あまりの凄惨さとジャーナリズムの無力さに絶望して出版を断念したカメラマンという設定だった。

今もそこについてはあまり気持ちが変わっていない。文筆や表現は偉大で崇高な仕事だ。新しくなったiPhoneより、燃費のよくなったエコカーより、文筆や表現は偉大で崇高な仕事だ。でも無力で意味のない活動でもある。我々はもう、もはや、思想や理屈ではなく、経済的なシステムにより動かされている。チェルノブイリのサマショールたちが現地を離れなかったのは、一つには生まれ育った村への愛着と劇中で呼ばれているものもあるが、同時に移住先に仕事がない、そもそも引っ越しの金がないという実に経済的なフレームのためでもあった。それはほら、フクシマでも同じだろう?

劇中では使者という人物が舞台上をうろうろしている。ニヤニヤしながらうろうろしている。僕は彼に、「くだらないテレビ見てるときみたく」「退屈しながら」観ていてくれとオーダーした。そもそも開演キューは缶コーヒーを開ける音をキッカケにしていた。『Caesiumberry Jam』は重厚で重要な悲劇ではなく、逃げ口を失った人間たちを神さまの視点からヘラヘラ見つめる芝居として僕は捉えていた。あんまりにも露悪的だし、そもそもこの構造自体がありきたりで、別にオリジナリティのあるものではないから、強調もせずオマケくらいの感じで設定していたが、気持ち的に一番近いのはそこだ。

村に残った人々は、必死に生きている。ポジティブに、愛を持って、隣人を慈しんで生きている。しかし決してフレームの外には出られない。経済的なフレームからも、人生という悪夢というフレームからも、自分という一つの愚かな現象というフレームからも。

……と、ここまではいわゆる「内容的なこと」であり、あまりよくない評論家が書いちゃいそうなことであり、ナルシスティックなクリエイターがライナーノーツに書いちゃうことであり、どうでもいいっちゃどうでもいい。だってこの『Caesiumberry Jam』は、論文ではなく演劇で、言論ではなく芸術なのだから。

演劇的なこと

一番わかりやすいところで、音響を排したことによる影響には何度も頭をぶん殴られた。昨年以来、「舞台上で今・まさに起こっていること」、俺が現前性とか眼前性とか呼んでいることに注目して演劇を作ってきた、その一つの帰着である。音響を使わない、スピーカーも卓も仕込まないしオペレーターもいない状況で演劇を作ったが、まぁしんどかった。ちょっとここでBGM、ちょっとここでツブしの音楽、ちょっとここで効果音、一切できない。いかに音楽に演劇が助けられているか、どれだけ音楽が演劇に於いて強力なサブウェポンであるか、改めて痛感。でもやっぱり、演劇の根源的な魅力は現前性であり眼前性であると再認識しはした。

同時に、音響への憧れも再燃している。今までさんざんこだわってチョイスしてきた音響群だったので。でも今回の公演ではなくてよかったと思う。

今回の作品においては、音響が流れないという緊張感がいい方向に作用したし、「音響がない」ということ自体が演出効果として客席に影響を与えていたと思う。初演では、回想である村のシーンではモーツァルトの管弦楽を使い、現代であるカメラマンとゴゴのシーンではモーツァルトのジャズ・アレンジアルバムを使っていた。モーツァルトの天国的な明るさに作品を重ね合わせて観ていたからだ。でも今回は、音楽がないということが音響効果であった。

一つのテーブルを中心に様々な場が同時並行的に展開していく手法は、DCPOP3『ベツレヘム精神病院』以来何度も使っている手ではあるけど、今回は美術の素敵さと相俟ってなかなか楽しんで演出できた。美術も土と奥壁以外ほとんど何もない、というミニマルさで、やっぱり現前性・眼前性への憧れなんだが、しかし土はやっぱり強かった。トッキーありがとう! 俺を騙してくれて!

脚本的には細かいところを随分書き換えたが、新規登場人物であるテト(サッカーボールの少年)、ジーナ(百科事典を貸してくれたおばあさん)、ミーシャ(精神を混乱させていく青年)の三人はさりげなくもいい配置だったと思うし、猫が生き延びる(初演ではまっさきに死んでた)というプロットも気に入っている。だがしかし、もう一つ突っ込んだ改稿を入れてもよかったとは思っている。チェルノブイリという巨大な不条理劇からは、もっと解決不可能な問題に言及できた気がしているからだ。

再演版では「お前は今どこにいるのかわかってるのか?」という台詞に始まり、何度も「どこにいるのかわからない」という台詞が繰り返されていた。フクシマという現実に多少なりともリンクさせたかったから、という腹積もりがなかったとは言わないが(嫌らしい下心だ)、それは本当に微々たるもので、最近俺が感じている、自分自身の不在感、浮遊感みたいなものが反映されている。モリー・スウィーニーでも語られていた、眼に見えているものの不確かさ、現実というものの浅薄さについて、俺は心を絡め取られて生きている。それに関する作品を書いてもいいかもしれない。だが、今回は中心的な問題としては見送った。だってこれは、別のものについての作品としてすでに存在していたものだからだ。

ラストの方でカメラマンが、こんな台詞を言っている。

未だに僕はね、自分が、何について書いたのか、よく、わからないんです。わからないままだ、だから……。これは一体、何についての話です?

(五幕一場)

これには2つの意味がある。皆さんどうか、これをチェルノブイリの話と思わないで欲しい。あるいはフクシマの話と思わないで欲しい。もっと言えば、愛についての話とさえ、死についての話とさえ思わないで欲しい。それは安易な結論だ。これは一体、何についての話だったんだろう? メロドラマにしないためにいろんな演出的努力をしたつもりだったが、元来のプロット自体がやっぱり少しメロドラマチックではあるんだな。でも、人生はメロドラマではない。

出演者についても少し。16人+ゲスト5人で21人もいるから細かく書くことは絶望的だが、一言で言っていいキャストに恵まれたと思っている。継続的な向上心と愛を持った俳優たちだった。また一緒に仕事をしたい人がたくさんいる。でも、それより先に問題になることがある。俺がどういうスタンスで俳優と向き合うかだ。

ちょっと前までの俺は、俳優は一個のアーティストであり個性である=どれだけ俳優の個性を引き出すか、ということに気持ちを随分傾けていた。今は、……と書き続けようとしたけれど、これはちょっと核心的な話過ぎるから、ここには書かない。一番大事なことは、ブログになんか書かない。飲み会でも話さない。インタビューでも答えないだろう。それは言葉では語れない問題だ。作品創造の中でしか答えを探せないし、答えを示せない問題だからだ。

劇団活動再開について

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まぁ、集合写真だ

諸先輩から「よくやった」と言われてほっとした。中川さんやイキウメ前川さんから、「この時代に劇団を再開すること自体うれしい」と激励された。俺も嬉しい。この2年間、活動再開は常にひとつの目標だった。

でもなんか、再開してみたら、意外とセンチメンタルな感傷はない。次のステージのために必要なことを考えるばかりで、「お、お前らと一緒にやれて……、俺は幸せ者だぜ……!」みたいなお涙系の何かは今んとこない。淡々と冷静に、次の公演のためのステップを考えている。だってまだまだ劇団でやっていくんだから。

と言いつつ、直近かつ眼前の問題は、外でのお仕事だったりする。でもそこでいい結果を示すことが周囲の人間への還元になると信じている。

感想など

TwitterもCoRichも個人ブログもアンケートも、実はかなり細やかに目を通しています。本当にいつも、どうもありがとうございます。