PLAYNOTE モリー・スウィーニーが残した疑問

2011年06月21日

モリー・スウィーニーが残した疑問

[公演活動] 2011/06/21 10:49

敬愛する先輩演出家・広田淳一氏がモリー・スウィーニーについて長々エントリーを書いてくれたので、少しだけお返事を書いてみようと思う。先に上記エントリーを読んでおくといいと思うよ。

広田さんは自由奔放に演劇・演出を手掛ける現場的な演出家であると同時に、自分やキャスト・スタッフ、観客に対し理論的に返答するだけの論理基板をきちんと持っている稀有な若手演出家であると思う。つまり、「どうしてかはわからんけど、こうすればうまくいく」と発言することも、「こういう演出をしたのは、何故ならばこう」とも言葉を持っている演出家だ。そこら辺のことは、昨年Project BUNGAKUでご一緒したときによく観察し理解したつもりだ。

広田さんの問い掛けている、

  1. 一人の俳優が一つの役柄を演じる事はいかにして可能か?
  2. 登場人物にとって観客とは何か?

という問いは、この作品の本質を突いているし、俺の興味ともずいぶん重なっているのだけれど、ちょこっとだけズレがある。俺にとって今回の作品は、演劇の本質は現前性・同空間性にこそある、という点についての一つの実験であった。

モノローグについて

モリー・スウィーニーは、ご覧になった方ならわかる通り、モノローグ芝居である。随所随所でダイアローグも登場しているが、あれは俺が上演台本を作る際に割台詞にしたもので、本来は終始一貫したモノローグである。俺も律儀というか堅苦しい方なので、翻訳の際、まずは割台詞や追加のト書きなど一切ない、モノローグだけの訳稿を作り、その後、上演台本であると但し書きをして脚色を行った。

モノローグだからと言って、演出家は「観客に語り掛ける」というスタイルをとらなくても構わない。例えば舞台上に第四の役としてインタビュワーを登場させるとか、取材用のカメラなりICレコーダーを置くなりといった演出は可能だし、「語り掛け」ではなく「独り言」のように演出することも可能だ。俺はそれは「つまんないから」やめたんだけど、しかし俺が「語り掛ける」というスタイルを意図的に選び取ったということもまた事実だ。

ブライアン・フリールがどういう意図でこのモノローグというスタイルを選んだのか、その真意はわからない。本人が語っていない以上、我々は憶測するしかないからだ。

広田さんの指摘。

どうして彼女は誰に案内されたわけでもないのに迷わずまっすぐに観客の方を向いてしゃべり出すことができたのだろうか? また、何かの講演会のようなものだと彼女が考えているとするならば、どうして彼女は挨拶をするとか会釈をするとかいった、そういった場にふさわしい身ぶりを何もしなかったのだろうか? 

どちらも俺にはいわゆる理屈としての回答はできる。前者に対する答えは、「視覚障害者は聴覚や空間把握が鋭敏な者が多いので、誰に案内されずとも自分の椅子に辿り着くことは可能だし、人がいる方向を察知することもまた可能である」。後者に対しては、「欧米人には会釈する習慣がない人も多い」というつまらねー返答しかできない。一度、稽古で会釈を取り入れたこともあったのだが、違和感しかなかった。俺の直感が違和感を訴えていたのだが、理論的にはあまり説得力のある返答はできない。

これは、「語り掛ける」という演出を取ることで生じたギャップである。例えばマクベスを戦国時代になぞらえて演出したときにも生じるズレ、人形の家を非リアリズムで演出したときにも生じる微妙なズレと同じで、モリー・スウィーニーはモノローグで構成された芝居だが、厳密に言えば「語り掛ける」ために書かれた戯曲ではないように思う。もっと厳密に言えば、「語り掛ける」という動機の設定をしていない戯曲だ。原作のト書きでは、椅子が三つ置いてあり、そこに三人がずっと座っている、というだけの指定しかない。

今回、モリー・スウィーニーにおいて俺は、とことんダイレクトに観客に語り掛けることで一体何が起こるのか、実験していたと言っていいんだと思う。おいおいあの豪華キャストで実験かよ、と眉をひそめる向きもあるかもしれないが、観客をないがしろにする実験ではなく、むしろ観客を徹底的に楽しませるための実験である。

俺は「観客の存在を認めた上で語り掛けて欲しい」という演出的オーダーを繰り返した。それは独白とは違うし、独り言とも違う。広田さんのように勘のいい人は、それによって生じたズレを嗅ぎ取って、「追求が甘いぞバーローめ」とやんわり指摘してくれているが、全くその通りであって、これ以上の「実験」は、自分で本を書き起こすことでしかできないと思っている。

アドリブについて

広田さんが提出しているもう一点の疑問、フランクが「三軒茶屋」とか「奥多摩」とか、あるいは客席への反応をするというのはどうしてか、モリーもフランクもやってないのに、という問いに関しては、非常に消極的な返答しかできない。

俺は三人全員に対してあの手のアドリブを許していた。アドリブ、というと言葉がちょっと違う。例えばいつかのステージで、客席からくしゃみが聞こえたとき、フランクは話を止め、「くしゅん、って! 大丈夫?」みたいな返しを入れていた。「語り掛ける」というスタイル、「観客の存在を認める」という方針をとった以上、これはあって当然のリアクションだ。一般的な対話劇でも、巧い俳優は相手役がくしゃみをすれば何か言葉を返すだろう。同じように、観客の反応にさらに反応する、ということができれば理想的だと思っていた。

これをどんどん突き詰めていくと、同じ台詞を毎回語る、ということすら嘘になってしまう。相手役=観客が毎回違うのに、毎回同じ台詞を言う、というのはおかしなことだ。マクベスが荒野を歩いていて、出てきた魔女が三人じゃなくて十五人だったら当然台詞は変わってくるし、魔女じゃなくてサンタクロースだったらもっと違ってくる。

稽古の途中で一度、もう全然違う台詞を喋ってくれても構わない、という指示を出したこともあったが、これは失敗に終わった。ちょっと考えればわかることだが、休憩込み2時間半の芝居を、アドリブ的に進行することは不可能に等しい。やれるとしても、膨大な稽古量が必要になるだろう。

だが、やれたら面白いだろう、とも思っている。モリーなりフランクなりライスなりの人格や記憶、習慣や身体性を完全に獲得した上で、アドリブ的に発語していくモノローグ・ドラマ。……一体どれだけ稽古すればいいのかもわからないし、やってみたところで結局「台本の台詞には叶わない」ということも何となく想像できる。

ライス医師役の相島さんはこの辺のことをとてもよく理解しておられた。お客さんに語る意識を強くしていくと、いつのまにか相島が顔を出す瞬間がある、と稽古の段階で言っており、しかしライスとして場に立ち語るということは長い俳優人生の中でも稀な体験で、しかもこれほどの量を語るのは間違いなく初めてだ、実に難しい、とも言っておられた。客席の存在を認めつつ、登場人物であり続ける、というのは、テクニカルに言って超絶的に難しい。

奥多摩とか三軒茶屋とかJALとかを許しているのは、ちょっと話がズレる。これは旧来的な意味でのアドリブだ。観客を笑わせるためのアドリブだ。今、語っていたのは、観客と対話するためのアドリブだ。

俺とブライアン・フリール

先ほど、「ブライアン・フリールがどういう意図でこのモノローグというスタイルを選んだのか、その真意はわからない」と書いたが、稽古を進めるにつれ、本当にわからなくなってしまった。

最初は、こう思っていた。ブライアン・フリールは、アイルランドの大劇作家である。日本で言えば井上ひさしとか永井愛とかそれくらい。そういう人が、65歳になってから、あんなにストレートなモノローグ・ドラマを書くからには、意図があるに違いない。それは恐らく、長らく親しく付き合ってきた第四の壁というファンタジーを乗り越えた表現を模索したかったのではないか。完全な推測だが。

今はこう思っている。そういう意図があったのかもしれないが、それは俺の考え過ぎであったのかもしれない。モノローグというスタイルは日本人にとってはあまりに特徴的なスタイルだが、欧米ではごく普通に用いられる手法である。ことさらにモノローグという点に着目し、違和感を感じ、意図を探ったのは俺の当て推量に過ぎなかったのか? と。広田さんの言うように、「たとえばこの戯曲が「ライス医師によって語られたレポート」という大枠の構造をもっていたならば話はもっとずっと簡単だったろう」が、そういうト書きは一切ないし、それだけでなく、「なぜ観客に語るのか」という点について動機を補足するト書きも一切ない。当て推量を重ねることは可能だが、結局のところ、ブライアン・フリールがどうしてこういうスタイルを選んだのかは、本人に聞いてみるしかない。

* * *

俺は最終的には演劇の演出に理論的な基盤なんかなくたって構わないと思っている。理屈? 知るか! こっちの方が面白いんだからいいだろ。みたいな。今回のモリー・スウィーニーも、ある程度の論理武装はしたが、最後は直感で作っているし、その方が演出家としては完全に正解だとも思っている。演出を理論化することはできても、理論で演出はできない。

広田さんもそれはわかった上で話を振ってくれているのだろうし、考える価値はあるのだ。いつだって理屈や理論は後付けでやってくる。これ、面白いけど、どうしてだろう? そういうことを考えているうちに、理論は後からついてきて、芸術理論がでっち上げられていく。やがてそれは金科玉条のようにありがたがられ、絶対不変の法則のように誤解されていくが、本来、演劇なり芸術なりの理論なんて、何の根拠もないものが大半だ。

俺は今、あらためてモノローグが面白いと感じているのは事実で、観客との距離感や、演劇にとって観客とは何なのかという点に興味を持っているのもまた事実である。それについて考えることは楽しい。だが、結論は出ていない。広田さんの問い掛けに、ほとんど基盤のある返答ができていないのは、そういうことだ。