PLAYNOTE 負けず嫌い

2011年06月01日

負けず嫌い

[雑記・メモ] 2011/06/01 23:55

最近PLAYNOTE書いてないだろ、と怒らないで。モリー・スウィーニーが初日まであとちょっと、なので、営業がてらあちこちのブログに書き散らかしているのです。どれもです・ます調とである調の使い分けすら曖昧なほどその日の気分次第な記事だけど、お前に文句言われる筋合いはない。

6/9発売の雑誌版ぴあ(ウィークリーぴあ)にもちょこっとインタビューが載ってます。本当にちょこっとだからね。だけど廃刊前に載れて嬉しいんだ。記念受験みたいなもんだよ。いや随分違うか。

モリー・スウィーニー稽古は順調過ぎて一周回ってしまい、一幕の基本方針を大きく変えるという挑戦に出つつあります。「間に合わせた」現場ではなく、「当然間に合った上にさらに突っ込む」現場になりそうです。

生臭いことを書くと、「間に合わせた」現場ではなく、「当然間に合った上にさらに突っ込む」現場にできる、というのは、経済の問題が大きく絡んでいると白状せざるをえない。は? 金? おい谷、てめーこのやろう、最近拝金主義じゃねーか、と、こないだ五年前の彼女に猛烈に突っ込まれて「ぐぬぬ」となったのだが、白状すると無視できないもんだいなのである。

きちんとギャラをもらっているから俺も時間が割ける、というだけでなく、明晰な頭脳と器用な手先、そして熱いハートを持ったスタッフがたくさんいてくれるからこそ俺も演出に時間が割ける、ということでもある。5,000円という、まぁ相場よりかなり安いが、しかし今までの俺にしては高め、という値段設定をしているからこそ劇場も稽古場も出演者もスタッフも理想的に集められる、ということでもある。

昔から俺は口癖のように、演劇は芸術でありながら芸能でもある、ややこしいテリトリーだ、なんてわかったような口をきいてはいたが、最近とみにそれを感じる。

DULL-COLORED POP公演では、工夫と愛と睡眠時間削減により何とか安い値段でいいものを、とやっているが、俺ももう29だぜ。今はまだいいけど、10年後、こんなことを続ける体力があるかどうかはわからない。

今はモリー・スウィーニーという現場で、世田谷パブリックシアター劇場の主催で公演を作っている。つまり俺も、ある意味助成金やら税金やらのお世話になっているということだ。タイニイアリスにいた頃は、「助成金なんかもらっちゃダメだよ、芸術が腐る」みたいな浅くて薄い大口を叩きながら、総動員数150人、みたいな公演をやってる老人たちと何度か出会ったものだが、あいつらは馬鹿だと思う。お前らの芸術が本当に優れているのなら国に金を寄こせと言うべきだし、金を払ったからと言って内容に干渉してくる役人がいたら、それは芸術を殺す、と反論するべきだ。べきだ論ですべてが上手くは進まない、ということもよくわかっているつもりだし、今の俺は不当に恵まれているだけだから、数年後には霞を食って生きてるかも知れないが、それでもその時、俺がモノづくりをしていたら、言うだろう。この作品に国は金を出せと。

人の悪口を言うのが目的ではない。世界には優れたアートが必要だ、ということをもっと多くの人にわかってもらいたいし、優れたアートを作るには金が必要だ、ということを政治家や役人にはわかって欲しい。

俺のよくないところは、作り手のくせにこういうこと考えちゃうところだ。

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先日、風琴工房『紅き深爪』、劇団チョコレートケーキ『十二人の怒れる男たち』、トープレ『In Her Twenties』という三作品を観た。どれも夏以降お世話になる人々が関与しているからだ。

風琴工房は、現代口語演劇とは明らかに一線を画す、クラシカルな演劇に魅入られながらも、しかし現代を描くことに火を燃やしている詩森ろば氏の作家性を感じる力作であった。人物の衝突は見事に構成されているものの、基本的に告白や吐露によって進行する点では、むしろ古典劇に近い印象である。僕は少女が歌をうたった後の展開に蛇足感を感じた。えぐる、えぐる、えぐる話の最後に、ある種の救い(だと俺は思う)があるというのは、きっと彼女なりの優しさや未来への意志なのだろう。詩森さんと話す度、俺の方が若いはずなのに、詩森さんの方がよほど未来や人間を愛している、という印象を受ける。人を許す器も大きい。結局のところ、作品の筋や構成には、その辺の違いが反映されてくるのだろうか、なんてことを考えた。

チョコレートケーキは、戯曲の秀逸さばかり語られる気がするが、俺はそんなことないと思っている。それほど大した本じゃないぞ、と。良さもわかるし秀逸さもわかるが、決して例えば『欲望という名の電車』や『櫻の園』や『ホームカミング』なんかと並べて語れる本ではない。あれを見て、観客に「いい本なんだな」と感じさせたのは、本ではなくあの座組の仕事である。共感できる登場人物や引き込まれる構造的フックがなかった分、ちょっと作品を遠く感じたのは残念だし、あとあれ翻訳はひどいと思う。共演したいと思える俳優がたくさん出ていて、過去の名作をやっているくせに、やはり演劇は俳優力なのだなということを痛感するというアイロニーが生じていた。しかし狭い空間に異常に濃厚な時間を流すというポリシーは見事に体現されていた。劇団名変えるといいと思う。

トープレは丸三年ぶりくらいに観た上野作品だったが、感じたことは主に二つで、上野友之は確実に腕を上げ神経を研ぎ澄ませ自分の仕事を理解しつつある、ということと、しかし俺は上野作品がやはり苦手だということだった。こればかりは仕方がない。俺はウイスキーが好きだ。でもあの子は生グレープフルーツハイを頼むだろう。そしてあいつはウーロン茶を飲み続ける。しかし奴めはウォッカをストレートでやり続ける。お互いがグラスを交換しても絶対に幸せにはなれない。お客には頼むメニューを選ぶ権利がある。それだけのことだ。そして、わからないものについては沈黙しなければならない。恥ずかしながら一点だけ付け足させてもらうとすると、女の子をかわいく見せる術についてはトップクラスのセンスと技術を持っている。そこは負けたくないと思った。

どうせ正直になれないのなら何も書かなければいいのだが、それはそれで不誠実な気がしている。くだらないかな。そういう考え方自体が。

俺のよくないところは、作り手のくせにこういうこと考えちゃうところだ。

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明日も稽古なのでもう寝る。俺は誰のために演劇をやっているんだろうか。そういうことを考え続ける昨今である。