PLAYNOTE 芸術家はただ美をのみ追求すべし

2011年05月31日

芸術家はただ美をのみ追求すべし

[雑記・メモ] 2011/05/31 00:59

モリー・スウィーニー稽古が順調に進み、まぁこれでダメだつまんないって言われたら「ごめんなさい」って言うしかねーよなぁ、と思っている昨今。僕はベストを尽くし、関与者もベストを尽くし、それでも相容れないものはあるだろうけど、こうも美しいものがあるのなら、観て欲しいと思うのは当然だろう。

表題「芸術家はただ美をのみ追求すべし」とは、拙作・翻案版『人間失格』という台本で、堀木という薄っぺらな男が吐き出していた台詞です。原作にはありません。

原文では、

葉蔵「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」
堀木「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」

 しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。

というようなくだりなんだけど、「自然に対するパアトス(パトス)!」と言っても、現代の無教養人には一体何がどう薄っぺらいのかわかるめぇ、パトスってそもそもエヴァの主題歌以外で聞かないだろこんな単語、という俺一流のふんぞり返った尊大な自意識が作用した結果、「じゃあもっと薄っぺらいこと言わせよう」と思って書いた一文でした。

「芸術家はただ美をのみ追求すべし!」

なんて、これはつまり審美主義とか唯美主義とか耽美主義とか訳されるものであって、オスカー・ワイルドとかがその代表者である奴です。オスカー・ワイルドが言う「ただ美をのみ追求すべし!」の重さと、堀木ごときがぬかす「ただ美をのみ追求すべし!」には雲泥の差があるのは置いとくにしても、平成社会のアーティスト気取りが「ただ美をのみ追求すべし!」なんて言った場合にはやっぱり当然「え、何を今さら」という感がつきまとうわけで、どっちみちペラいことには変わりないのです。

この言葉は、絶叫すると非常に陳腐だし、そうでなくとも例えば酔っ払った挙句に女の子口説こうとして「いやね、芸術家、ってのはね、つまり……、美の追求、それだけが使命なんだ」なんてぽろっとこぼしてもダサくてペラいだけだし、どっちみちダサくはある言葉ですが、だがしかし、胸の奥にそっと抱えている分には、一向構わない、むしろ美しい言葉であるように思います。

芸術家はただ美をのみ追求すべし。いいじゃないか。美以外の付加価値がない芸術が片っ端から社会にはねつけられる昨今では、こう考えること自体がちょっと昔とは違った難しさを抱えてはいる。昔は芸術=道徳とか芸術=宗教的敬虔さを求められもしたわけで、だからこそニーチェもワイルドも「ばっかやろーい」って言って反発したわけだが、今はちょっと違ってきている。なるほど、確かに美しい。だから? それに何の教育的効果があるの? どんな経済効果があるの? どれだけお客が呼べるの? どれだけ公益性があるの? そういう、ある意味では道徳とか宗教よりももう一段くだらねー価値観のために一段下に見られているわけで、そう考えると現代も結構に貧しい感じもする。

でも、僕は信じている。助成金の審査員だとか、プログラムの選定者だとか、そういう人はあくせく社会的・経済的価値を求めてはいるものの、ただふらりと劇場に足を運んだお客さんは、ただ芸術として美しければ何の文句もないだろうということを。ただ美しいもの、面白いものを求めているだろうということを。

だからモリー・スウィーニーも、ただ美しく、ただ面白いものをやろうとして、はい、これからも頑張っていきます。観に来いよ。もうそろそろ売り止めの回も出るからな。6/10から。