PLAYNOTE メンテナンスWSを折り返してみて

2011年04月05日

メンテナンスWSを折り返してみて

[演劇メモ] 2011/04/05 00:39

だいたい2週に一回くらいずつ、定期的に集まって延々とワークショップを繰り返している「俳優のためのメンテナンスWS」というのがほぼ折り返しを迎えたので、ちょっと中途を振り返ってみる。

参加者のMLにこんな文章を投げた。

折り返してみての僕の感想ですが、
「俳優としての自分をメンテナンスする」というテーマにとってやはり一番重要なのは
指導者よりも環境よりも何よりも、自覚と意識なんではなかろうか、と考えています。
常に自分を俳優として認識し直すという意味での自覚。
ライバル意識や目標意識を持ち、かつまた具体的な行動/修練を積み重ねていくという意識。
人生は短く芸術は長し。
しかし、指導者や環境は、刺激を与えることはできても、24時間付き添っていることはできず、
むしろその刺激を十分飲み込んだ上で、一人でいる時間をどう充実させるか、
そこの良し悪しで大きな差が出るのでしょう。

週に30コマも予備校の授業をとっても、自宅でバラエティ番組ばかり見てれば受験には落ちるし、
世界的なピアニストに指導を乞うても、家で鍵盤に触れなければピアノは上手くならない。
この辺は、すごくシンプルな理屈なのだと思います。自戒も込めて。

すでに1年の1/4が終わりましたが、今年の収穫の1/4は採れたでしょうか。
今、自分に足りないのは何でしょうか。

ちなみに僕が、今、僕自身を省みて、一番なっとらんと思っているのは、
「俺の一言で世界は変わる」という傲慢な自意識をもっともっと持たねばならん、というとこです。
世界や状況を変える意識のない奴は今夜にでもアーティストやめちまえ、
と、確かどっかのロックスターだか画家だかが言ってたのを強く思い出します。
世界や状況がこれほどまでに目まぐるしく変質・転換している中で、
芸術の意義は大きく揺さぶられたように見えて、何も変わっていないのだ、と、
改めて自覚しています。

MLへのポストなのでやったらガチガチしたデスマス文章だが、嘘は吐いていない。要約するとあんまりにも短くなっちゃって惨めだが、稽古や本番だけでなく一分一秒をアーティストとして生きること、世界を変えるつもりで表現しろということ、の2つにまとめられる。

メンテナンスWSでは古典のテキストを扱っている。すげー素直ですげー強烈な感情吐露を必要とするシェイクスピア『ロミオとジュリエット』のバルコニー・シーン、一瞬一瞬の緊張感とアップダウンの大きさがとんでもないテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』からブランチとスタンレーが遺産の書類を巡って立ち回るシーン、そして的確なサブテキストの設定と意識の分散、さらに微細な人間観察眼がなければ太刀打ち出来ないチェーホフ『かもめ』のトレープレフとニーナのシーン。

あえて無茶苦茶難しいもんを選んだ。何ヶ月もかけて接するテキストなので、あっさり組み敷けるものを選んでもしょうがないし、普段の自分とは遠い人物にアプローチすることが大事だと考えたから。「あなたのそのままでいい」という演出は、安易な形での現代口語演劇の流行を契機に世に蔓延り、特権的身体も芸も知識も持たない俳優が小劇場界に跋扈する状況を招いた。いや、どんな名優でも結局最後はいかに自分を出すというとこに落ち着くものだけど、そこに至るまでには手の届かない高さにある枝を折ろうとして手を伸ばし続ける時間が絶対に必要なのだ。

守・破・離という実に含蓄のある言葉が日本の芸事の世界にはもうあるから、それをググれば全部解決なんだ。

ただし、自分で自分を訓練し続けることの重要性とは別の場所に、指導者なり観客なりから得る意見や指摘の重要性はある。この2つをきちんと分離して、どちらもよく咀嚼しなけりゃならない。演出家やお客に言われるダメ出しは、気づきとして、そして刺激として重要だが、そうやって生え出た芽にきちんと水をやり土を耕し風雨から守って開花させるには、自分自身の自覚と意識と、そして時間が必要になる。

俳優に向けて書いているようで、ほとんど自分に向けて書いているような文章になってしまうな。すごく簡単なことを難しく言っているとも言えるが、でもそれを感覚とか習慣の中に落とし込むことはなかなか難しい。

忙しくても、体壊しても、ブログだけは書こうと思った。そして俳優も、自分一人の時間の中で、何がしかを継続させるということが、一番大事なんだと思う。

リンゴ食って寝よう。