PLAYNOTE 菊池正史『テレビは総理を殺したか』

2011年03月05日

菊池正史『テレビは総理を殺したか』

[読書] 2011/03/05 01:41

日本テレビ政治部に籍を置き、TV報道と政治の関係をずっと最前線で見つめてきたどころか、その渦中にいた筆者が暴く、「どうして政治はポピュリズムに走ったか」、そして「どうしてマスコミは冷静な報道ができなくなったか」。年末くらいにやる予定の演目に関係する題材で、本屋に平積みされてたから何となく手にとって移動中の電車で一気読みしたんだけど、細部がリアル過ぎて異常な説得力がある。

そして、忘れちゃならない、マスコミ関係者がマスコミ自体の膿を出すというタブーに敢然と挑んている。これは勇敢な本だ。金出して買ってよかった。

例えば80年代、TV報道では政治部にも視聴率が求められるようになり、90年代になると、一般企業と同様に成果主義で報酬が変動するようなシステムが導入された。そして報道は言論としての性質よりも、見世物や興業としての性質を強めていく。

それまでは職人的な記者やリポーターが多く、政治部にはある種のプライドもあったのだろう。権力を監視する目として、そして第四の権力として。しかし、映像の力は恐ろしい。腰を据えた綿密な取材で政治課題について述べるより、ハンディカム担いで料亭で待ち伏せしセンセーショナルな映像一本撮ってくる方が、早いし視聴率が叩き出せる。そして、視聴率が叩き出せる方が絶対的に正義。そんな裏事情が本書には描かれている。

さらに小泉政権時代。「反対したら抵抗勢力」と単純明快な二極構造に政治を持ち込み、民意を受けたという圧倒的な権威を持って改革を推し進めたのが小泉純一郎だ。いかに小泉がメディアを利用するのが上手かったかという具体例が本書には数多く収録されている。そして、メディア側もメディア側で、小泉はおいしいエサだったんだ、ということが書かれている。取材すれば視聴率が稼げる。視聴率が上がれば小泉人気は過熱する。人気が加熱すれば小泉はより大胆なことをしでかし、さらに民衆は熱狂する。

筆者は、そんな熱狂のスパイラルの中にいて、「これ、なんか、ヤバいかも」と思いながらも何もできず、後になって「気づいてはいたんだ」と言い訳ぶる自分の弱さにまで触れている。丹念に読んでいくと、どう考えてもTVの罪過について多く触れられているとしか読めないんだが、まだ日本テレビに勤めてるってのにこんなことを書くなんて、この著者、果敢にも程があるぞ。

TVはもう、視聴率のご機嫌取りに終始して、社会の公器としての威厳も意味も失い、むしろ民衆の欲望を加速させる装置になってしまった。そして政治家は、かつての密室政治、根回し政治、派閥の領袖という束縛から逃れたと思った矢先、今度は支持率がとれる奴こそ正義、政策より支持率が大事というジレンマに陥ってしまった。

小沢、小泉、安倍、鳩山、そして古くは岸や角栄など、多くの政治家がどうメディアと付き合ってきたかというエピソードは読んでるだけで面白かったけど、それよりもTV業界に身を置く筆者がTVというメディアをこんな風に分析していたのが面白かった。

テレビは出演者と視聴者とを対等なもの、あるいは同質なものにする性質がある。実際に政治家と会えば萎縮しておどおどしてしまう人も、テレビの前では自由に堂々と政治を批判し評論するものだ。口もきけない政治家に対し、テレビの前でだけはむしろ優位な立場で一方的にものが言える。(p182)

田中角栄以降の日本政治史を振り返ると、テレビという権威が、メディア以外の権威を疑い、対決し、そして剥奪する過程が見えてくる。子供が親の権威を乗り越えて自立するように、人間には古い政治的権威を振りかざす権力者の化けの皮を剥がして対等の関係になろう、あわよくば自分が優位に立とうとする欲求がある。(p237)

前者は視聴者をバカにしているというよりは、テレビというメディアの恐ろしさを語っているように俺には聞こえるし、後者はテレビが政治という権威をやっつけたという満足感ではなく、幼稚なルサンチマンと虚栄心を振り返っているように読める。

ならぐだぐだ言ってないでまともな報道してみろよタコ、と罵声の一つも浴びせたくはなるのだが、こんなことも書かれていた。

2004年に発覚した政治家の年金未納問題では、閣僚の辞任などが相次いでメディアは大騒ぎとなった。ある日の打ち合わせで、私が「未納問題は本質ではない。年金制度の改革にこそ焦点を当てて報道すべきだ」と意見を言うと、「すでに政局は未納問題で動いているし、視聴者の関心もそこにある。テレビは視聴者とともにある」という反論が返って来た。(p248)

政治家はメディアと有権者(支持率)を恐れて足をとられ、メディアは視聴者(視聴率)を恐れて報道精神を失い、視聴者は偏向した報道と口の上手い政治家に騙されて踊る。バカに合わせてバカな報道をするから政治もバカになった。

かと言ってメディアや支持率に振り回されまいとして粛々と政策を実行していた麻生太郎のような政治家は、メディアに嫌われ有権者に誤解されて引き摺り下ろされる(参考:麻生叩きはバラエティ - PLAYNOTE。メディアも視聴率が欲しいし視聴者は刺激的な話題が欲しい。メディアも生活かかってっから視聴率無視なんてできないわけで、あぁ、もう、どうしようもない堂々巡りなのね。

一応本著でも締めくくりに、一人一人の国民が「熱いけれども冷静な目を持って」メディアをチェックする必要がある、そうすれば未来が開ける可能性はある、というようなとこで落としているけど、そんなもんこの筆者自体がどこまで信じているんだろうという気にはなる。卵が先か鶏が先か、じゃないけれど、情報を与えられないまま正しい選択をする国民なんて育つわけがないし、国民がバカなのに報道だけ公明正大に、なんてやってたらそんな番組は次の改編期で視聴率がとれずに潰れて終わりだ。情報統制を敷かれている北朝鮮の国民がまともな判断を下せないであろうと想像できるように、現在の報道に慣れ切った国民が政治や報道について毅然とした態度を取るなんてあり得ない。

じゃあどうすりゃいいのさ。そこまで来て、結局のところ、俺も沈黙せざるを得ない。

もういっこ。本書中盤あたりで繰り広げられていた、政治家と番記者のどこまでも人間的なやりとりは読んでいて面白かった。政治家だって信頼できる記者には胸筋も開くが、その逆もまた然りだし、記者だって自分をないがしろにされたらその政治家について公平な意見なんて持てないだろうし、そしてこちらもその逆もまた然りというわけだ。人間同士がやってることなんだから、どうしてもこうなっちゃうんだろうね。

そうすると、ジャーナリズム精神を持った記者はいねーのか? という問いが生まれる。どこ行っちゃったんだ、ジャーナリズム精神とやらは? いやいや、今だってもちろん、ジャーナリズム精神とやらを持っている記者はいるだろう。社会の公器として、公平を期し、書くべきことを書くべき形で書き、世に伝える。いないわけがない。絶対いるんだよ。

ただ、そいつが視聴率を取れているかというと、多分取れてないだろうね。