PLAYNOTE 池谷裕二『進化しすぎた脳』

2011年03月04日

池谷裕二『進化しすぎた脳』

[読書] 2011/03/04 12:57

今度上演する『モリー・スウィーニー』の資料集めのために認知心理学のコーナーに行ったら置いてあったので買ってしまった。そして一気読み。若き脳科学者・池谷裕二が、脳科学における最先端の研究結果を、高校生たちに向けて語った全四回の講義をまるっと収録。目が覚めるような読書体験だった。

まえがきで池谷氏は、とある物理学者の言葉、「高校生に向けて自分の研究を喋れないような科学者は、本当に自分の分野を理解してるとは言えない」みたいな言葉を引用している。引用はこの冒頭の句くらいで、残り全部、本書の99%は池谷氏が自分自身の言葉で平易かつ深く、そして最新の脳科学について語っている。

どれくらい最新かっつーと、「えーとこれは先週発売の『ネイチャー』に投稿された論文からなんですけど」ってレベル。これは、読んでてもわくわくするけど、現場で聴いてたらもっとわくわくするだろうな。最先端の研究者でさえまだ知らないような、発表されて間もない研究結果が、ダイレクトに自分の耳に届く。しかも、すっごいわかりやすい。

紹介されていた中で特に強烈な印象を残したのが、「ラジコンで操作できるマウスはもう実験が成功してる」とか、「マウスやサルの脳波をキャッチして、簡単な機械や、かなり複雑なロボットアームを操作する技術はもうある」というもの。これって、おい、全世界のガンダムオタク、ファンネルが実用可能だってことだよ! 脳波をキャッチして、機械を動かす。

しかし本書はそんなトリビアの紹介に留まらない。「脳が先にあって体を動かしてるんじゃなくて、体に合わせて脳が変化する。だから、人間に腕があと数十本増えたとしても、脳はそれに対応して変化して、自在に何十本もある腕くらい動かせるようになる」みたいなトンデモめいたことまで書いてあるが、しかし、彼の説明をきちんと追っていくと、それがよくあるトンデモじゃなくって、脳科学の研究結果と演繹的推察から予測できることであることがよくわかる。

さらにそこから一歩進み、「心とは」「意識とは」という哲学の領域まで足を踏み込む。今までもっぱら哲学や文学、心理学の領域であった心や意識、自己という問題。これまでは人間観察や物語研究を素材にして問うていた「人間とは」という問題を、最新の脳科学の研究結果を素材にして問い直すことで、新たな地平に光を当てている。

自由意志は存在するか、どうか。明確な結論は「あえて」避けているように読めるけど、しかし僕が読んだ限りでは、自由意志は存在しない、というところにまで、脳科学は辿り着きつつあるように読める。

脳の運動野と大脳皮質の観察結果から、「好きなタイミングでボタンを押してください」みたいな簡単な判断ですら、大脳皮質にある「意識」が感じるよりも前に、体に命令を出す運動野が反応していることがわかるそうだ。今までも感情より運動が先、ということは、ジェームズ・ランゲ説などで80年近く前に言われていたことだけど、思考より運動が先、なんてことになったら、じゃあ人間は何なんだ。1・2章ではこういった問題をマクロな観察結果から話題にしており、3・4章ではもっと踏み込んでミクロな観察結果、すなわち脳の神経細胞一つ一つを調べることから演繹して考察している。

個人的に強く印象に残ったのが、言葉に関する考察だ。俺はソシュール言語学を大学の時にちょこっとかじったことがあって、その影響だろうけど、人間と動物を明確に区別する唯一にして絶対のものこそ言葉だ、という見地に立っている。正確には「言葉」よりも「言葉を操る能力」、すなわち抽象的な思考能力というものこそ人間の特権性なんじゃないかと。他の動物は、サインやシグナルみたいなもの、「吠えたら危ない」とか「鳴いたら好き」レベルの意思疎通能力はあるけど、記号や言語といった一対一じゃない意思疎通や意思表現はできない。できる奴がいない。抽象思考能力こそ人間の要件だ。

本書では脳科学の観点から、つまり大脳皮質の構造だとか、人間の記憶の特徴だとか、そういったところから話が進んでいって、言語にも触れているんだけど、そこからがさらに面白い。人間が言語を操れるのは、もちろん脳のおかげだけど、脳がかくも複雑な言語能力を獲得できるようになったのは、人間が優秀な喉を持っていたから、という結論に辿り着くんだ。

生まれつき指のうち二本がくっついていた患者がいて、その患者の脳を観察すると、指四本分を動かすだけの機能しか有していないんだそうだ。しかし、手術で指を切り離してやると、今度は脳が変化して、指ご本文を動かせるような機能を有するようになる。それまでなかった五本目の指のための神経細胞が現れるわけ。つまり、脳が先にあって体を動かしてるんじゃなくて、体が先にあって、それに合わせて脳はどんどん変化する。つまり、人間は優秀な喉と舌を持っていたから、それを使いこなせるように脳が変化して、そして言語機能を有するに至ったというわけ。

この本を読んで、最近読んだ二冊をふっと思い出した。どちらも読みやすい、簡単なものだけど、深い深い場所まで我々を連れていってくれる良著です。

『寝ながら学べる構造主義』は、ナメきった名前だけど、構造主義の歴史や論点も含めた全体像が大きく掴める良著。構造主義の本。

『和文仏教聖典』は、仏教の教義やお釈迦様の言行について、わかりやすい文体で書かれた本。ホテルとかによく置いてある奴で、実際、俺もホテルで読んで、「これはいい」と購入した。

『<子ども>のための哲学』は、「哲学や哲学者についての本」ではなく、「哲学をする本」である。つまり、自分の頭で、独我論や道徳論について考える本。

脳科学と仏教と構造主義の間に俺は、人間はそもそも主体的な存在ではない、という共通点を見出す。脳科学と仏教と哲学の間に俺は、しかしそれでも特別な「私」とは一体何だろうという飽くなき問いを喚起される。それぞれジャンルの違う本だけど、どれも衒学的にならずに、一番だいじな問題について追求しているから、そういう交差点が見いだせるんだろう。

「私」なんてねーんだよ、というのはよーくわかったので、今ここにいる「私」、それはハイデガー的に言ったら現存在になるんだろうし、脳科学的に言えば覚醒感覚「クオリア」とも言えるのだろうし、いくらでも換言はできるだろうけどとにかく「私」、こればっかりは不思議でならぬ。もともと精神医学に興味があったり文学にこれほどかじりついたりしているのも、俺はずっと人間について知りたいからだと思っていたけれど、そうじゃなくて、自分について知りたかったからなのかもしれない。「谷賢一という自分の特徴や個性や本当にやりたいこと」みたいな自分探し的な意味じゃなくて、「私」という人間の不可解さについて。

ほらね。考えがまとまっていない人間の文章は、こうもわかりづらいものなんだ。池谷氏の著書を読んでいると、彼の文章が本当にわかりやすいのは、本当に彼が自分の研究を理解しているからなんだなということがよくわかる。百聞は一見にしかず。是非読んでみて下さい。もはや、脳科学は脳の問題じゃなくて、哲学や心理学、そして「私」という問題にとっても無視できない学問になってしまったのだから。