PLAYNOTE このお相撲はフィクションです、は成立するかしら

2011年02月04日

このお相撲はフィクションです、は成立するかしら

[雑記・メモ] 2011/02/04 23:51
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相撲の八百長が毎日トップニュースになるくらい平和な日本でハッピーなんだが、しかしあまりにもどうでもいい。どうでもよすぎる。欧米に比べて日本はとにかく殺人事件とエンタメニュースが異常に多いらしく、マスコミがバカを育ててバカに応えようとマスコミがさらにバカになるという無限連鎖を繰り返しているわけだが、相撲も社会問題のあれこれを隠すためのいい硝煙になっているんだろう。

どっかのブログで誰かさんが「相撲=フィクションです、ってテロップ出せばいいじゃん」なんてこと書いてて「なるほど」とは思ったんだが、しかしちょっと想像してみるとその相撲中継はちっとも面白くなさそうだな、ということに気づいた。何でかしらと少しだけ考えてみた。

相撲がガチのわけないじゃん、ヤラセと思って見て楽しめ、みたいなことを言う都知事がいたり、あるいはプロレスと一緒だろなんて意見も飛び出してるが、プロレスと相撲は全然違う。プロレスには演出があり、見せ方、展開がある。言ってみればただフィクション(作り物)であるだけじゃなく、創作であり作品でもある。

今の無気力相撲はショー・アップされたプロレスとはぜんぜん違うよね。どれだけガチ勝負っぽいかを狙った、どれだけ悪目立ちしないかを意図した、言わば自然主義のフィクションだ。しかし、「ガチ勝負ですよー」と表向き言っているわけだから、これは言わば私小説的自然主義リアリズムに似たものと考えられるかもしれない。

初期の自然主義小説が、とりわけ私小説的な傾向に流れたことはちょっと文学史を知っていればご存知だろう。芥川龍之介なんか、自然主義こそ文学である、みたいな時代の中で、「お前もっと自分のこと書けよ」「つくり話ばっか書いてんなよ」と叩かれていたくらいである。自然主義が面白いのには、表現スタイルとして自然主義が適切に機能しているという場合と、実話性があるから面白いという場合に分けられる。まぁ普通両方の要素を含有しているものだが。

実話ってやっぱり面白いんだよ。今だって「本当にあった○○な話」は売れるわけだし、友達の実体験とか聞くと「マジでー!?」って面白がっちゃう俺たちがいる。どういう構造かはわかんないけど、我々には「物語性」(=よくできたお話)を求める欲求があるのと同時に、「実話性」(=本当にあった○○な話)を求める欲求もあるらしい。

お相撲からこの実話性とでも言うべきものを差っ引いてしまうと、後に残るのは脚色も演出もされていない地味な取組が残るだけだ。地味な私小説や暴露本から実話性を差っ引くと、一気に興ざめするのと同じように、お相撲から実話性を差っ引いちゃうとやっぱりちっとも面白くない。この点において、「ヤラセでも同じように楽しめ」というのには無理がある。「本当にあった○○な話」は、本当にあったかも、という点で下駄を履いているんだから。

プロレスは物語性、お相撲は実話性に担保された鑑賞物らしい。たぶん勝敗にハラハラするようなスポーツはどれも実話性にその興奮を担保されているのだろう。いくらメイクドラマ連発でドラマチックな野球の試合があったとしても、「※この試合はフィクションです」と事前にテロップ出されてたら多分つまらないし、サッカーだってそうだろう。

プロレスには実話性は感じられないが、しかし確実に傷ついている肉体、傷めつけられている関節や骨が存在している。この点はちょっと考えを留め置くべきところとも思う。

さて、じゃあ、我々に残された選択肢は二つだ。

  1. 相撲の実話性を回復する → ガチンコ徹底主義
  2. 相撲の物語性を強化する → ショー・アップ、演出、構成、脚色を足していく

案外、2番目に挙げたガチガチにショーアップされた相撲も面白いかもしれない。そう思うのは、随分昔にこんな動画を観たからだろう。

どうせ相撲協会の連中にガチンコ徹底なんか無理なんだし、「やらせでいいじゃん」「わかってたし」なんて慎太郎ややくみつるが発言している現状では外部委員をいくら置いても無駄だろうから、どうだろう、これを機に、相撲の一部は↑の動画みたいにCGだらけにしてみては。これなら俺もNHK相撲中継見ちゃうかもしれないわ。