PLAYNOTE 日誌

2011年01月28日

日誌

[雑記・メモ] 2011/01/28 01:53

PLAYNOTEを放置し過ぎていてあちこちから「死んだ?」「やっと死んだ?」「もう死んだ?」とメールが来るようになったので、少し書いておきます。

お酒を少し控えております。執筆には体力が要るので、毎朝毎朝ゲロゲロと環七に吐瀉物を撒き散らす暮らしを脱さねばと思ったのです。慢性的に超睡眠不足なので酒の力を借りずとも夜はよく眠れます。

今夜はビールをだけ飲んでいます。No Beer No Life。僕のメアドがnobeernolife@~だった頃のことを覚えている友人知人はもう身の回りには少なくなってしまいましたが、今も心はNo Beer No Lifeです。今日、久々に新宿の雑踏を歩きました。あの街を歩くと心がすかっと殺伐していい感じです。世界との距離感をぐっと離して、仙人のような気持ちで「みんなばかだなぁ」と思える、素敵な街、新宿です。

永井愛先生と詩森ろば先輩に「煮詰まったらどうしてます?」と聞いたら、お二人から同じく「人に話す」という答えが帰ってきて目玉が裏返りました。愛先生はもう30年と劇団をやって20年以上書いていらっしゃるわけですが、それでも未だに模索し悩み精進していらっしゃる模様で、芸道というものの奥深さをひしひし実感する今日この頃です。

新作の文体サンプルのために久々に漱石なぞ読んでみたら、大変うれしい気持ちになりました。例えばヒロインの描写なのですが、

 くれない弥生やよいに包む昼たけなわなるに、春をぬきんずるむらさきの濃き一点を、天地あめつちの眠れるなかに、あざやかにしたたらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりもあでやかながめしむる黒髪を、乱るるなと畳めるびんの上には、玉虫貝たまむしかい冴々さえさえすみれに刻んで、細き金脚きんあしにはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒きひとみのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴はんてきのひろがりに、一瞬の短かきをぬすんで、疾風のすは、春にいて春を制する深きまなこである。このひとみさかのぼって、魔力のきょうきわむるとき、桃源とうげんに骨を白うして、再び塵寰じんかんに帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊もこたる夢の大いなるうちに、さんたる一点の妖星ようせいが、死ぬるまで我を見よと、紫色の、まゆ近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。

わかるか、こんなもん!

ただ、漱石はこの作品を書くに当たって、一行一行をそれこそ俳句でもひねるように呻吟し考え抜いて執筆したそうです。そういう文章をひとつひとつ丁寧に読み解いていく楽しみは、これは代えがたい楽しみなのです。

渋谷ルデコでは堀奈津美(DULL-COLORED POP)の主催企画イベント『Prism』が上演中で、僕が脚本提供した『ドリゼラの憂鬱』なる小品が出品されております。アトリエ春風舎では今日から青☆組が小屋入りし、『雨と猫といくつかの嘘』なる再演作品が上演されます。そうして2月20日からは、一ヶ月以上の長丁場で、二兎社公演『シングルマザーズ』が上演されます。あ、女の人ばかりだ。

僕もこうしてブログを書き散らしているのだから、その分、戯曲では、魂を削るような一文、一行を書かなければなりません。

人間は、やりたいことをやるのではない、やれることをやるのだ、という言葉がありますが、これを否定的に捉えると大変世の中がペシミスティックになっていけません。漱石だって書けるものを書いたのだし、芥川なんかはもっと顕著で、書きたいもの(筋らしい筋のない、詩のような小説)は書けずに、最後まで物語作家であったし、永井先生だって自分だからできることをお考えになって筆をふるっていらっしゃると仰っていました。

こう、人間の周りに白いチョークでその人の「ライン」が書かれているとして、その外に足を踏み出すことはどうやったってできません。しかしそれで「俺はどこにもいけない」と思うのはまた虚しいことです。井の中の蛙大海を知らず、しかし空の高きを知る、とも言いますし、それに、半径1mの円だって、その中に描ける工夫は無限大です。

早く寝て明日も頑張ります。春が来る前に、気持よく季節を変えられるよう、やっておかなきゃならないことが、たくさんあるのです。