PLAYNOTE 青年団若手自主だて企画『終わりなき将来を思い、18歳の剛は空に向かってむせび泣いた。オンオンと。』

2011年01月19日

青年団若手自主だて企画『終わりなき将来を思い、18歳の剛は空に向かってむせび泣いた。オンオンと。』

[演劇レビュー] 2011/01/19 02:26

「観劇」はさせない。「観劇」はできない。という強烈なキャッチコピーで情宣しておった青年団若手自主だて企画の公演を観てきた。観客参加型演劇、という表現もできるだろうし、文字通りの意味で「客席と舞台の垣根がない」、文字通り一切ない独特の趣向。以下ネタバレだが、是非劇場で体験して欲しい。でないと、この感覚はわからないだろう。

演劇について考えさせられる演劇であると思うが、それ以前に、脚本や演技のクオリティが高く、作品としての完成度も高い。稽古においても演出においてもアトリエ春風舎をフル活用した、芸術監督として非情に嬉しい公演でした。25日まで、アトリエ春風舎にて。

劇場に入るときから「体験」は始まっていて、タメ口の係員にフレンドリーな態度で話し掛けられる。僕は疲労でべろべろの極地、地を這うような精神状態で劇場の門をくぐったので、ぶっちゃけ一瞬イラッとした(笑)。

そして場内に入ると、客席がないのだ。どこを探しても客席がない。劇場内全体が学校の教室として建て込まれており、出演俳優と思しき活発な生徒たち5~6名と、お客さんと思しき大人しめな人々があちこちに着席している。僕はあえて前から二列目を陣取り、さぁ巻き込んでみやがれという気分で開演を待っていた。

作品は水曜日の一時間目、ある高校の数学の時間に起きた人間ドラマが展開される。先に脚本内容に触れておくと、学校の先生とクラスメイト、2人との離別を扱った群像劇/現代口語演劇。高校生的、思春期的な、すれ違いが生むムカツクやサミシイや、友達関係の間に流れる照れ臭さや愛らしさを散りばめた脚本は無駄がない上に完成度が高く、単に演出的趣向だけで評価してはいけないと思う。実にガキ臭い情熱や友情を、高校生テイスト溢れる巧みな台詞で描いている。

そして、出演者が目の前にいる。演出趣向としては、出演者、ではなく、クラスメイトがそこにいる、と言った方が正しいかもしれない。いわゆる「現前性」、すなわち「眼の前で起こっていること」こそ演劇の醍醐味であるという最近の僕の興味から言えば、恐ろしいほど「現前性」な舞台である。

結果的に僕は、普段のように俯瞰で芝居を観て構成や演出や演技に関して批評するという観点を見失い、かなり感情移入してクラス内にいたと思う。代理で数学の授業を見にきた体育の先生がいるんだが、彼の人格にかなりムカついている自分がいた。高校生の頃を思い出していたんだ。ああいうさ、薄っぺらなお説教で、俺たちを言い含めようとしてくる大人が俺は大嫌いだった。実際、あの先生はすげーイイヤツなんだろうが、高校生になってしまっていた俺にとっては「うるせー、薄っぺれー大人」でしかなく、かなりイライラしつつ彼を見ていた。

しかし、これは僕が物語の内側から彼を見ていたということに他ならない。引きこまれていた。単に客席と舞台セットを同じくしたという演出的趣向のみならず、丁寧な作り込みが生んだ感情移入であったように思う。

だが、万々歳、手放しの感触というわけではなく、僕は一つの違和感も感じていた。先生にせよ生徒たちにせよ、かなりのリアリティを感じて僕はあの状況を見ていたのだが、しかしどうしようもない嘘が一つ、あの教室の中に存在していた。それは、他ならない自分自身である。押し寄せてくる、あるいは喋りかけてくるリアリティに比して、僕は圧倒的に嘘っぱちであった。

前述の通りほとんど高校生の俺としていつの間にか見ていたので、作品に、と言うよりは、そこにいる人間たちにかなりイライラして見ていて、「うるせー馬鹿野郎」とか「黙れよおっさん」とか「なめてんのかこら」みたいな啖呵を切りたくてうぞうぞしていたんだけど、もちろんできない。ちょっとしたリアクションやちょっとした台詞なんかは言えるんだけど、あんまり自由に振る舞い過ぎたら俺ウザい客になっちゃうよな、的な、自意識のために、俺は自分の居方に途方もない嘘を感じていたんだ。

それは物語の強度の強さ、丁寧さ(屋上で会話する二人のシーンの台詞は本当に素晴らしい)、そして眼の前に躍動する人物たちの心身という圧倒的なリアリティがあるからこそ、「俺が嘘」という感覚は強化される。引き込まれるから喋りたくなるんだけど、喋っちゃうとぶっ壊してしまう(かもしれない)。ちょっと味わったことのない感覚であった。

しかし、面白い公演である。これは是非観てみて欲しい。演劇を考えるためのよすがとして。

(個人的メモ。以前、あの中野の深夜の居酒屋で喋ったように、圧倒的な現前性的リアリティの行き着く先は、コロッセウムか剛オンオンか、ミニマルアートとしてのデスロック、であるならば、思想的撤退について考えるべきかもしれない。物語とか、軽薄さとか、ポップアートとか、嘘だとか。あるいは、カリスマだとか、スターシステムだとか、芸能だとか、見世物小屋だとか。)