PLAYNOTE 人を楽しませるということについて

2011年01月04日

人を楽しませるということについて

[雑記・メモ] 2011/01/04 05:50

やぁ、ヒバリさん、今朝もやってきやがったね。ハロー、我が家に隣接する大型量販店と二世帯住宅一戸建ての隙間からこぼれる朝日さん。俺は今日もくよくよしているよ。台本が書けねーからだ馬鹿野郎。帰れ、朝日、気が早い。あと十時間くらい俺を机に向かわせてくれ。窓の外はナイチンゲールでいっぱい! だったらいいな!

さて、依頼主に「もうちょっと待って」的なメールを送り、そこに長々と、おそらく原稿用紙10枚くらい、言い訳とも展望とも取れぬ文章を書いた。書くことは、いいことであるはずだ。「駄文書いてないで原稿書け」と罵られそうだが、それが一番効率がいいとも限らない。書くことは、問題を整理することでもあるし、考えるための補助線でもあるからだ。

最近考えていること。人を楽しませるということ。

昨年、Project BUNGAKUにて太宰治を扱ったことが大きかった、というだけではない。『悪魔の絵本』という脚本内で、こそこそと文学論をやっていたことから繋がっている、という風にも言える。吉田さんゴメンナサイと言いながらちいとも進展のない小説のイメージを考えるたびに考えていることでもある。そして何より、エンターテイメントあるいは暇潰しとしてしか機能しなくなりつつある現代の文化・芸術という問題意識もある。

何がいいとか悪いとか、そういうことを問題にしているのではない。あくまで、少しでも人の心に届くものを書こうと思ったら、どういう風に書くべきだろうか、という、表現手法上の問題意識から発していることだ。人を楽しませるということ。

しかし太宰治を引用する。

 私は家庭に在っては、いつも冗談を言っている。それこそ「心には悩みわずらう」事の多いゆえに、「おもてには快楽」をよそわざるを得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力する。そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。いや、それは人に接する場合だけではない。小説を書く時も、それと同じである。私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

 人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善い事であろうか。

かの有名な『桜桃』より。僕が太宰治で一番好きな短編だ。

* * *

こないだネットでニュースを見ていたら、こんな記事を発見した。

痛いニュース(ノ∀`) : 「今の若者は映画を芸術として見れず、単純な言葉しか届かない」…関係者、「映画離れ」の背景を語る

平成22年の映画興行収入が過去最高の見通しとなる一方、「スモーク」(1995年)などの佳品を紹介してきた恵比寿ガーデンシネマ(東京都渋谷区)が来年1月で休館するなど、ミニシアターの閉館が相次いでいる。

背景には、シネマコンプレックス(複合映画館)の台頭に加え、「映画を芸術として見たり考えることが苦手で、『泣ける』『笑える』といった単純で強い言葉しか届かない」(映画関係者)という現代の若者の傾向があるようだ。

「今の若者はイベントとして映画を楽しむのは好きだが、静かに映画を見るのは苦手。窓口で学生証を見ることが本当に少ない」ミニシアターが数多く集まる東京・渋谷の老舗、ユーロスペースの北條誠人支配人は嘆く。

痛いニュース(ノ∀`)より

内容はどうでもいい。これに対する2chの反応があまりに凄まじかったので、ちょっとびっくりしてしまった。「映画なんか娯楽なんだよ」「本当にいい映画なら素人でもわかるだろ」「つまらない映画を芸術って言って誤魔化すな」、などなど。

『スモーク』はいい映画だったが、あれをデートや仕事帰りに見ようとは確かに思わないから、気持ちはわかる。でも、俺は映画には明るくないが、どんな芸術でも見方がわかると、教養が増えると、より面白く見れるようになんだぞ、という反論はしたい。しかし、まぁ、2chのレスなのであんまりムキになっても仕方がない。

ただ、以前のエントリーでもちらと書いていたことだが、「通にしかわかんないような何か」に重心を預けすぎることに、最近大変用心深くなっている私がいる。劇団名にPOPって入れてるくらいだから、もともとそうは思ってんだけど、最近特に用心深くなっている。だって俺も、楽しい方がいいもの。

こないだ友人と「人間は意思決定をしたがらない動物なんじゃねーか」みたいな話をしていて、その流れでラース・フォン・トリアーの映画のことをつらつら思い出していた。『マンダレイ』のことを思い出していた。『ドッグヴィル』や『奇跡の海』には及ばないが、いい映画だし、そのとき話していた「自分で決めなさい、あなたの意思を尊重するよ、というスタンス事態が、意思決定を避けようとする人間的欲求の現れなんじゃねーか」という議題にとても合致した映画だったので、よし見返してみるか、とちらと考えた。ちょうど今書いているプロットにも使えるものがあるかもしれない。

しかし、俺は見なかった。何故か。かったるいからだよ。言い訳はしない。でも何故か朝方やってた『ドラえもん』は見たなぁ。しかし『ドラえもん』でさえ、10分くらいの短編は見たが、「次は長編映画を大サービス!」みたいに言われてこっから2時間モノ始まると思ったら、TVのスイッチを切った。つまり俺は、

ドラえもん(TVの短編)>ドラえもん(長編映画)>ラース・フォン・トリアー

という順番で視聴を選んでいた、ということになる。ナンタルチア!

僕もいっぱしの社会人になってかれこれ数年、それなりに摩耗も消耗もしているが、その結果、こういう発想がわかるようになった、というのは、喜んでいいことなんだか嘆いた方がいいことなんだかちょっとわからない。

* * *

話を戻して、人を楽しませるということについて考えながら、今、モノ作りを探している最中だ。子どものような心で、子どものような話を書きたいと思っている。

そろそろ寝る。