PLAYNOTE ひとり稲城長沼

2010年12月26日

ひとり稲城長沼

[雑記・メモ] 2010/12/26 02:47
リサとエクセルシオール

今日はハッピーでラッキーな49時間ワークショップの初日であった。年末年始に7日間まるまる演劇やろうぜ! バカ集まれ! 死ね! って告知したら30人以上応募があって、うち14名だけ選考通過しワークショップやっている。本当はもっと取りたかったんだよう。ごめんよう。特に最近どこかの現場やWSでご一緒した人は、僕がもらえる新しい出会いや僕が与えられる新しい刺激という面を重視して、涙を飲んでゴメンナサイ致しました。

企画・運営の大野さんはマジでおつかれ。大量の折り込みと稽古場おさえと応募窓口、ぜんぶ一人でやっていて、それは俺もかつて一人でやっていたから大変さがよくわかる。彼の情熱で今回の集いは成立しているのだ。

そうして稲城長沼の稽古場で、俺は一人今日もマルボロをふかしていた。イギリスにいた頃はゴールデン・ヴァージニアという巻煙草を吸っていた。帰国して、明治大学文化プロジェクト『マクベス』の演出をする頃から、マルボロを吸っている。もう五年か、六年か? ある意味、付き合いの長い友人や恋人よりも長い付き合いのマルボロ。一人休憩所でマルボロをふかすのは、儀式めいた重大さを秘めている。

WS内容に関する記述は、後日アシスタント元田のリポートを待ってからアップする予定なので、まだ書かない。ただ、休憩所でひとりマルボロを吸っている自分について書いておく。

演出家にとって大事なことは、そりゃあもう大学ノート五冊分くらい書き散らせるくらいだけの引き出しはあるつもりだが、休憩所でマルボロを吸う、これがとても大事なことなんだ。

僕は煙草を吸いながら、参加者の何人かに声をかけたりかけなかったりする。この人はもっとリラックスした方がいいのに、と思う人には声をかけるし、こいつ増長してんな、と思う人には声をかけない。心理戦である。演出はいつだって心理戦だ。

僕は煙草を吸いながら、しかし極力、休憩所の話題に前のめりにならないようにしている。演出家の立ち位置は難しい。友達になってしまうと、一言が軽くなるし言いたいことも言えなくなってしまうので、近づき過ぎるのもよくない。しかし逆に、疎遠になり過ぎてしまえばそれもそれで問題だ。つかず離れず、ちょうどいい位置を常に探っている感じがする。

僕は煙草を吸いながら、予定していたプログラムに頭の中で変更を加えていく。結構綿密に7日分のプログラムを策定してはいるのだが、しかし俺が相手にしているのは野菜でもプラモデルでもない。人間である。当然、少しずつ変更を加える必要があるし、ある時にはがらりと別のことを始める大胆さが要求される。マニュアル化できないのが演出作業であるし、センスなんだ。

結局は、人の心を扱う仕事なので、マニュアル化なんてできっこない。そのことをいつも肝に銘じている。

さぁ、七日間の長丁場のワークショップの始まりだ。僕は絶望したくない。「俳優は、そんなに上手くなんかならない」という公式を認めたくない。僕が十年近く学んできた、演出論や演技論が無意味だったとは思いたくない。これは、俺自身に関する闘争でもある。

そうして稲城長沼を出て、来年のカナリア派のプレ顔合わせに少しだけ参加し、帰宅する。何度も何度も電車を乗り違える俺の心は千々に乱れている。暗いメールが届いたからだ。まぁ、わからんでもない。人と人は誤解で繋がっているようなものだ。例えば僕が君を愛しているのだって、それは理解とも誤解とも言い切れないものだし、例えば僕が誰かと仕事をする上でも、正しく理解することと同じくらい、不確かに誤解することが大事になったりもする。

どうせ誤解だらけなのだから、なるべくいい方向に、プラスになる形で誤解したい、と思うのが、俺なのだ。ポジティブな発想ではないが、もうずっと、そうやって生きてきた。ソーメンチャンプル食べたい。

電車を乗り間違えまくった挙句、結局タクシーで帰宅することになった俺は、車窓の中からおそらく今夜夜空に浮かんでいるはずの赤い赤い月について考える。あの赤い月は、五年前に俺がマルボロを吸い始めた頃にちょうど空に浮かんでいたものだけど、こうしてまた今俺の頭上に輝いている。赤く、赤く。麻里子おばさんのポトフが食べたい。

自宅に帰って梨を剥いて食べる。梨に向かって歌を歌ってやる。梨の皮肌をゆっくり舐めてみる。しかし、そうしてまた、マルボロに火をつける。そうやって、どうにかこうにか生きている。椅子の下に転がしてある黄色いクマのスリッパに足を入れよう。少しは暖かいはずだ。そう、少しでも暖かい方を目指して、僕は演劇をやっているんだ。

もう少し原稿を書く。そして寝る。明日もまた、赤い月が空に昇り、俺はマルボロをふかしている。健康に悪いから吸っているのだよ。それは恐らく、ゆるやかな自殺衝動とでも言うべきものなのだ。ゆっくり、ゆっくり、死ぬための準備を進めていく。生きるための原稿を書き進めていく。

そういう夜であった。梨食おう。