PLAYNOTE WSのこととか最近のこととか

2010年12月19日

WSのこととか最近のこととか

[雑記・メモ] 2010/12/19 02:40

年末年始に49時間WSやるから集まれ、と言っておいて、「こんな時期に人なんか集まるかよ」「7日間も予定あけてくれる人いんの」「つーか定員に達しなかったため開催中止とかダサ過ぎ」と思って震えていた49時間WSですが、無事、と言うか、定員の3倍弱の応募があり、無事開催が決定しました。明日明後日くらいには企画者側から連絡行くと思います。五ヶ月かけてやる『俳優のためのメンテナンスWS』の方はまだ一週間受付中。こちらも結構応募来てるようですが。

WS職人になりたいわけではないのだが、しかし最近、俳優教育という問題が、誰のためでもなく自分のために重要になりつつある。

先だって公演終了した国道五十八号戦線では、小屋入り期間の最後の三日間くらい、返し稽古をほとんどやらずに、アップやゲームをばかりやっていた。これは異常なことである。

もともと、ミザンスをなるべく振らずに、俳優にその場で反応させる、その場で生まれたものを使わせる、という方針を取っていたことがまずは大きい。ミザンスなり音色なりをかっきり決めていれば、返し稽古で「それ違う」「もっと上手」「そここうやって」で済むんだが、舞台上で生まれるものを使う、という方針をとった場合、稽古であれこれ決め打ちの段取りをつけていくことは無意味だ。

だから最後の三日間くらいは、キャッチボールをやったりシアターゲームをやったりしていた。国道五十八号戦線の現場では時間が足りなかったこともあってあまりやっていなかった、というのもあるし、もう一つ重大にして痛切な理由があってやっていたということもあるのだが、俳優の反応速度や反射神経を起こすためにも、そこに関して自覚的になるためにも、アップやゲームを重視した。

これは大変珍しいことだ。だって、本番用のセットが立っていて、音響・照明を合わせた返し稽古まで出来る時間に、舞台上でやっていることがキャッチボールである。もったいない。稽古場でやれよ、という話である。しかし、当時、あれこれ考えた上で、一番やるべきことはキャッチボールだった。

来年の僕の目標は、劇団の活動再開に目掛けて、極端に言えば「自分の手駒を増やす」ということになりそうだ。魅力や技術や集客力があり、かつ、舞台上で反応できる俳優。後者がとても重要で、決めておいたミザンスを裏切る勇気と知性がある俳優を育てる、ということが、今やろうとしていることを考える上で、抜き差しならない問題になってくる。

ミザンスを振る、演技の段取りや方針を決める、というのは、つまり、俳優に武器を授けることだと最近何となく考えている。
「こうやって」
「ああやって」
「ここで、こうしてくれればいい」
そうして決め打ちを増やしておくことは、演出家にとっても安心だし、俳優にとっても安心だ。演劇という正解がない芸術をやっている以上(そもそも正解のある芸術自体が少ないか)、演出家は数少ない「正解ホルダー」である。演出家がこう言うから、ト書きにこう書いてあるから、稽古でこう決まったから。それは、俳優にとっては武器にもなるし、防具にもなる。不安なときはその武器を頼みに斬り込むことができるし、失敗したときは「そこ、演出だったんだよね」という防具にもなる。

しかし本当にいい俳優には、武器を授ける必要はないし、今僕が面白いなぁと思っている演劇は、コントロールが効かない類の出来事なのだと思う。悪いけど、コントロールには自信がある。明日からでもコクーンやらせろ。100人出してみろ。きっちりミザンス振ってやる自信はある。素人に毛が生えた程度のことだが、それなりに舞台機構や照明機材、音響効果についても理解している方だから、ここでこうしてああするとこういう風に見えてこういう効果になる、という計算はつく。そういうのをガチガチに決めていくのは、もう自分にはできることだから、面白くないし、あんまやりたくない。いずれその刀を抜く日もまた来るんだろうけど。

エチュードという稽古が俺は嫌いだった。あんなもん、やりようだ。俳優にとって、「うまくいった」と思わせるのも、「俺はだめだ」と思わせるのも舌先三寸だし、本当に欠点を叩こうとか自覚しようと思ったら、エチュードで自分の延長線上から演技を考えるより、自分とは断絶した役をどうこなすかを考えた方が収穫は多いと思っている(実際、自分はあんまり稽古でもWSでもエチュードをやらないが、やらせたら上手い自信はある)

だけど、今後のWSや稽古では、エチュードをまたやらざるを得ないだろうし、むしろ積極的にやりたいと思っている。俳優を意図して操る「演出操作」のような演出は、もう2年くらい前に飽きた気でいた。俳優の意思を引き出すためのブロッキングやメソッドは、それなりに引き出しがあるつもりでもいる。ここからは、俳優の対応力や判断力、舞台上で思考する俳優を手駒として育てるために、やれることは何なのか、考えていかないといけない。

僕は平田オリザをある意味で強く尊敬し、そしてある意味で軽く唾棄してもいる。彼の方法論は実にクレバーだ。だけどちょっとずるいし、クレバーさだけでは行きつけない場所だってあるんだということを俺は否定し切れない。信じようともしているんだろう。誤解を招く表現ばかりが並んでいるが、詳しく書くのはまたいずれ。あるいはWSで話そうと思う。

* * *

来年の時間堂の脚本に粛々と取り組んでいる。しかし、強烈なライバルが登場した。ほとんど同じ題材を斎藤憐大先生が書いていた、という事実に今更気づいたのだ。おっとっと。とりあえず速攻で取り寄せたので、これから読んでみる。あああ、時間がない。

別にかぶるのが嫌とかじゃないんだ。だけど、少なくとも斎藤憐大先生より自分にとっては面白いと思える本を書けなければ、書く意味も上演する意味もない。手元には資料がすでに二十冊近くある。半分は読んだ。あとは、脳味噌仕事だ。

* * *

アトリエ春風舎でやっている高校演劇サミットのお手伝いに行っている。あ、いや、違うか。芸術監督として現場に立ち会っている。十年ぶりくらいに高校演劇というものを見た。

俺はこう見えても、いやどう見えてるんだか知らんが、生粋の高校演劇上がりだ。高校の演劇部で演劇の面白さを知った人間だ。もっと言えば、そこから文系に崩れていき、文章を書いたりもするようになった。高校演劇は、スタートラインと言うと恥ずかしすぎて自爆するが、確実に自分の人生において2年なり2年半なりを捧げた宗教であった。

さて久々に見てみると、あぁ変わってねぇんだなぁ、と思うところと、あぁ変わってきたんだなぁ、と思うところがあれこれあったが、それより何より心を打つのが、連中の「自分の見えてなさ」である。悪いね、暴言ぽい書き方で。だけど、これが一番正確な気がするし、それは褒め言葉でもあるんだ。

自分の身の丈なんか、わかんなくっていい。一生わかんなくったっていいくらいだ。なのにハタチを超えた我々は、自分には無理とか向いてないとか、自分は駄目とか下手とか、ここが足りないとか、やたらと客観的になってしまう。そうでなきゃぶち殺されてしまう社会なのだから仕方がないが、自分を過小評価する奴は、少なくとも表現のジャンルにおいては損をすることが多いだろう。

たぶん彼らには彼らなりに、自分や自分の高校の演技・演劇についてのダメ出しや反省点があるんだろう。でも多分そのどれも、俺に言わせれば的外れだし、どうでもいいことばかりだ。滑舌なんか悪くていいし、体なんか固くていい。役の気持ちを生きれなくても別にいいし、全員で心を一つにする必要もない。それどころか、演劇を続けていくにあたって一番大事なのは、才能とかクオリティではないのだから、もっと大元のところで何か食い違っている。

でもそこがいい。変に賢くなって、妙に自分を隠したり誤魔化すことがうまくなって、ただ単に技巧的になっていくエセ表現者になってしまうよりは、自分を見つめることよりも、自分の行き先だったり大切なものだったりを見つめる力の方が大事だ。連中は必死であった。脚本も演出もスタッフも、そしてもちろん出演者も必死であった。内容的には稚拙な箇所もあったし、あの場にいる何人が十年後に演劇業界に残っているか知れない。でもそれで全然いい。野球部出身で野球で食ってる奴がどれだけいる?

重要なのは、必死である連中の表現圧力の高さであった。特にある高校の正直言って稚拙な脚本からバキバキ立ち上ってくる表現衝動・表現圧力には舌を巻いた。あー、なるほど。これだね。これがあるから、高校演劇は強烈なファンがつくのだし、観て感じるものがあるんだ。そして逆に、これを失った表現者はゆるゆると死んでいく。

連中は、あれこれと必要なものを持っていないし、そもそも向き不向きもあるのだが、しかし、一番大事なものを持っている。一番大事なもの。今僕が一緒にお仕事したいと思う人々に求めているものと一緒だ。文字通り、自分の全存在とか実存とかを賭けて、演劇をやっている。

少し目が醒めた気がする。

* * *

取手でまた酒鬼薔薇世代の男が大量通り魔事件を起こした。何なんだろう、俺の同級生たちは。気持ちはわかる。「わからない」と言っている人の気持ちの方が、俺にはわからないくらいだ。犯人に同情はする。被害者にはもっと同情するけど。

そういうつまんねーところじゃなくて、何で82年生まれにはこういう奴が局所的に集中してるのか。そろそろ結論を先延ばししている場合じゃないんじゃないか? 単純に知的好奇心としても、この謎なぞには興味がある。それに、まぁせいぜい20代の俺たちにできることは包丁振り回して突進することくらいだが、これが30代、40代となってからスコーンとぶち切れてしまった場合、つまり、地位も権力も金も悪知恵もあるような奴がぶち切れてしまった場合、今回の事件でも十分に痛ましいが、それ以上に痛ましい事件が起こる気がする。だって、俺が一晩考えるだけで、少なくとも百人単位で人間をどうこうするような犯行は可能だもの。

(包丁と果物ナイフなんてチャチな獲物を選んだ時点で、……)

もちろん僕はそういうことをやらない。身の回りに大事な人や物がいっぱいあるからだ。明日からこのキーボードが打てなくなると思うだけで、思い留まるところがあるくらいだ。たかがキーボードでも俺にとっては抑止力になる。とっても大事な、でも一万円もしない、安物のメカニカルキーボード。それだけでも大事な一日のキーワードだ。取手のアイツ、名前も知らないけど、アイツには、もう何もなかったんだろうな。

All we are saying is give peace a chance. いやそれ無理っしょー、って、もうみんなわかっちゃってる。大人も子どもも評論家も。でも、自分だけは、いやそれイケるかも、と思わなきゃ、やってられない。

しかし今日もウイスキーを飲んで寝るだけ。明日も大事な、くだらない、しかし必要な一日が始まるから、そろそろ眠る。