PLAYNOTE 国道五十八号戦線、終了

2010年12月17日

国道五十八号戦線、終了

[公演活動] 2010/12/17 01:21
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BA-RA-SHI

国道五十八号戦線の本番・バラシが終了し、そうして劇団自体もスコーンと解体されました。以下雑感。

とてもドライに演劇のことだけを書けば、いい演出ができた。脚本を踏みつけない。でも演出意図をぽんと提示する。

『異状ナシ』ではテーマ的には「盛り上がるのは今しかできん」「ぐずぐず理屈くさい大人とかより野放図な若者の方がセクシーだ」みたいなところに集約して演出した。

独立という実に夢のあるお話を扱っている割に、どこか冷めた、大人びたスタンスで作られていたように思う初演版を僕は観ているが、眠気に襲われたことを覚えている。ラストシーンは大幅に演出上の手を加えた。脚本にはトラメガも脚立も天井からの垂れ幕も存在しない。ソウルフラワーユニオンが響き渡る中、祝祭的空気を満喫し、トラメガでがなりまくったラストは、初演の記憶でもト書き上でも、ぐでーんと寝転がった若者たちの静かな犯行として描かれていて、僕はそれを直感的にダサいなと思ったんだ。

劇団が改名し、大学内の内小屋から外部の劇場へ進出した際に書かれた「独立」のお話。別に劇団の話と断定しなくてもいいけれど、あの本に書かれていたことで一番重要なものは、夢を叫べ、後悔は後回しだ、ということだと思っている。設定上のどんでん返しに僕は全く興味がないし面白さも感じない。俺の興味は舞台上にはじける肉体にだけ引き付けられる。

『異状アリ』は、全体を通して演劇性をはぎとっていくという志向性のある演出を施した。いわゆる「お芝居」、コテコテの「演劇」から始まっていき、徐々に音響が止まり、照明も使われなくなり、最後は劇場内の蛍光灯のみでの上演。演劇は現前する身体である、というテーゼを、自分でも感じたかった。

『さっき終わったはずの世界』に関しては、ラストの台詞の解釈を変えた。「嘘、待って」という、二人の男女から衝動的に発せられた宇宙人への一言を、「嘘」「待って」と割台詞にし、お互いがお互いへの最後の思慕なり後悔なりを表明しようとする、でも戸惑ってしまう、という解釈に変えたところが最大の変更点だが、まぁそれ以外は派手なことはしていない。ただ、ミザンスをあえて細かく振らないという原理原則に基づいて、舞台上で思考し反応する三人が見られたのは大変愉快であった。

『テンパってる奴』は一番印象が変わった作品だろう。そもそも原作ではFFの音楽が流れたりしないし、膝に猫を乗せてワイングラスをころがしながら声を張って喋るような演技も脚本の指定にはない。当然、寿司屋も大家もあんな意味不明な挙動をとっていない(笑)。要は開幕~最初の転変までは台詞はそのままだけどほとんど独創であったわけだ。反応の良い四人の俳優にある意味インプロ的な挙動を許したことで、コントとかお笑いライブに近いようなユルさがあったが、それはもしかしたら僕が今演劇でやりたいことに一番近いのかもしれない。お笑いとか、そういうことではなく。

しかし、「コテコテの芝居をしている珍妙な住人たちの中に、素っぽい人間(ピザ屋)が紛れ込んでくる」という演出設定は、つまりは「演技」あるいは「決め打ち演技」というものに対する自分の中での不信感が現れているのだと思う。最初はスタニスラフスキー的な戯曲分析を行った上でリアリズム演劇として構築することが可能かどうか試行錯誤してみたのだが、無理だった。お笑いにしたかったわけではない。「実は、……だったんです」とか「本当は、……だったんだ」みたいにコロっと状況が変わってしまい、しかもそれを舞台上の人間も観客も飲み込むしかない、という「演劇性」の胡散臭さ、みたいなものに、反発したかったんだろう。

『三鷹の女』ではそれまでコテコテに使い倒していた照明・音響を色気なくカットアウトし、生明かりのDF2灯という芝居っ気のない明かりの中で、一人の男が淡々と喋るという演出をとった。この演出は自分としては面白かった。短編連作だからこそ変化の落差が感じられる。そして生音。淡々と喋りながら机を突然殴る男、揺れるテーブル、弾けてガチャガチャと音を立てる麻雀牌。音響効果でどかーんとか照明効果ですこーんみたいなものじゃなく、目の前に存在する物こそが、一番自分にとっては面白くもあるし、恐ろしくもある。あれは怖かったな。

『三鷹の男』ではいよいよ照明の天井回路もカットアウトし、劇場内に常設されている蛍光灯のみで上演した。演出プランとしてはこれが一番面白かったが、上演成果には満足できなかった。こういうのは、自分の演劇史上では恐らく初めてだ。

その他

大変残念であったのは、この劇団、解散するにはもったいない、是非とも続けるべきだよ、と思えなかったことであった。

え? と思う人もいるだろうけど、ごめんね、こういうところで正直で。脚本や役者にファンがいるのもわかるし、凡百のクソ劇団が生き残る中で死んでいくのはかわいそうでもあるんだが、劇団にはやっぱり寿命というものがあるようで、それは大抵の場合、作品性よりもむしろ、人間関係だったり集団のシステムだったり取り巻く状況だったりが命取りになる。国道五十八号戦線は、いい作品をお客さんの心に残したかもしれないが、ちょっともう走り続けるには無理があるほど、体にはガタが来ていたんだ。

僕は今回、その余波をもろに食らいまくって、割を食いまくった、損しまくった実感があるが、実際のところはそれは別に構わないと思っている。どんな公演だって、どんな劇団だって、そうやってひーひー走り回ったり人の尻拭いをしたり、そういう愛を捧げることでギリギリ成り立っているわけだし、大変だったのは僕だけじゃない。ただ、演劇業界的に死んじまった方がいい奴が何人かいたのも間違いない。死に体の劇団を走らせるためには、誰かが献血でも献体でもしてやらなきゃならないってことだ。今までは劇団員なり客演なりの愛に支えられて動いていたのだろうけれど、それにだって終わりは来るのだ。

もともと作品性なり個性なりに魅力を感じていたからこそ演出をやらせてくれと言い出した。そういう意味では、無責任に「解散は残念だ」と言うことは今でもできる。ただ、内部事情を覗いてみて、ああ、このまま続けるのは本当に四十度の高熱を出した傷病者にフルマラソン走らせるようなもので、いいよ、ゆっくり安め、別の形で演劇をしろ、と思ったんだ。

集団なんてものは、どれだけ絆が深そうに見えても、本当につまらないことでがらっと崩壊してしまう。一般論としてね。58の5人で撮った何か集合写真みたいなのを見る度に、そして劇団員の話を聴くたびに、あぁこれはいい集団だ、絆の深い集団だ、と思っていたけれど、それでも解散は訪れるんだな。

友寄くんにも、ごめんなさいとか残念だとか思わずに、無期限休養をたっぷり休み、その気が起きたら筆をとればいい、その日まで焦らず過ごすといいよ、と伝えたが、同時に現状ママで急いで再起とかすんなよとも強く警告しておいた。一事が万事、そういうことだ。

さらにその他

いろいろ苦労が多い現場だったので、その分、客演陣と謎のグルーヴ感溢れる友情みたいなものを感じられた。個人的に遊びたい人がとても多かったのは大変よかった。またマリオカートやりたい。

コメント

投稿者:痺 (2010年12月21日 13:17)

初日にDJしてた者です。

谷さんの正直っぷりイイですね。
そーなんです。アイツら相当ガタが来てたんです。
これ読んでて僕も辞めた時、色々言い訳してたけど、本当はガタが来てて限界だったんだなと今更、気づきました。

「ゆっくり休め、別の形で演劇をしろ」って最高の優しさだと思います。
今度、アイツらに会ったら僕も、まんま同じ事言おうと思います(笑)

投稿者:谷賢一 (2010年12月22日 13:25)

コメントありがとうございます。あんまり迂闊にあれこれしゃべれる話でもありませんが、一つの劇団が終わるという大事件は、演劇の後輩らにとっても勉強になるだろう、と思い、書きました。意図を汲んで頂けたようでありがたい。

今度彼らにあったら、友人として、優しい言葉をかけてやって下さい。