PLAYNOTE Project BUNGAKU『人間失格 - 太宰治』終了しました

2010年10月13日

Project BUNGAKU『人間失格 - 太宰治』終了しました

[公演活動] 2010/10/13 17:36
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集合写真(C)JUNICHI HIROTA

『人間失格』で参加していたProject BUNGAKU『太宰治』、全17ステージ、無事終了しました。ご来場頂いた本当にたくさんのお客様、どうもありがとうございました。総動員数1502人+αで、キャパ100のワーサルシアターでこの数ということは、ほぼ毎日満席だった、ということです。大盛況、大盛況でした。

すったもんだはあったものの、谷賢一翻案・演出の『人間失格』が、観客投票で4団体中最多得票、見事1位の栄誉を頂きました。投票してくれた方々も、してくれなかった方々も、どうもありがとうございました。

作品について

最近あまりやっていなかった、正統派なダルカラ演劇をやったな、という印象です。舞台上手に作家のテーブルがあり、重ね掛けされる音響があり、エリアライティングやシルエット、レイヤード・シーンがあり、独白と散文会話が混在している。実に自分らしい演出だけど、やったのは久々だ。

主人公である葉蔵を、27歳のイケメン美女・コロちゃんと40代の巨漢・塚越で2人1役にて演じる、という中心が見えてから、作業は早かったように思います。原作の葉蔵をストレートに立体化すると、表面的には陽気で口の上手いイケメン、という部分しか見えず、内側の複雑怪奇な懊悩がどうやっても見せられない。一番ストレートだけれど、一番適切な翻案だったと思う。何でもヒネればいいってもんではない。

演技演出にも実は結構細かい指針を持ってやっていたんだ。センターにいるコロ&塚越の葉蔵ペアは、リアリズムからはみ出した演技を積極的に使用すること。逆にそれをとりまく人々は、徹底的にリアリズムの文法で勝負すること。葉蔵は終始一貫して「まわりの人間がわからない」「おそろしい」とガタガタ震えているけれど、しかしまわりの人間はただの、ふつうの、どこにでもいる生身の人間である。生々しく、普通に、リラックスして振る舞っている人々を、葉蔵がガチガチになって怯え続ける、というのが基本ラインでした。

途中で、葉蔵が「わからない」とかブルブル震えている最中、周囲で人々がボール遊びをしたり写真を撮り合ったりイチャコラしたりしているシーンがあったんだけど、あそこは観ていてとても不気味で楽しかった。センターで体を硬くする葉蔵に対し、周囲でリラックスして遊びまくる人々。いいコントラストだったと思うし、二つの異なる演劇的なものが同居した結果、いい違和感を出せていたように思う。

導入も自分らしかった。モノローグ、センターサス、集まるシルエット、カメラのフラッシュ。一方的に向けられるフラッシュは、美しくもあり、そして実に暴力的だ。とあるポップスターが客席からのカメラのフラッシュで視力をがくっと落としたことがあるそうだし、僕らだって反射的に体を固くしてしまう。写真で始まる物語、そして怯え続ける葉蔵の物語に、フラッシュは象徴的な効果を与えていたし、同時に、単純に、絵ヅラとして綺麗だった。

随分と贅沢な俳優の使い方をしたな、というような言われ方をよくしました。でも、僕はこれも一つの演劇のあり方であると確信している。俳優は作品に、全体に奉仕するものだ。もちろん抜け駆けする奴がいたって構わないが、全体をぶち壊す抜け駆けをすれば却っておいしくないし評価も下がるということを、ある程度経験を積んだ俳優なら誰もが理解している。そういて、僕がいわゆる「俳優は演出家の駒」と考えていないということは、前掲のエントリーを読んでもらえれば十分わかると思う。

人間失格チームの俳優陣は本当にチームワークが良くて、ほっといても台詞を合わせたり段取りを打ち合わせたり、「稽古して下さい」と言い出す奴もいれば「ダメ出し下さい」と言い寄る奴もいて、大好きな奴らばっかりだった。一応みんな「下さい」とか言ってくれてはいるけれど、いい演劇の現場の場合、演出家と俳優は役割分担が違うだけで、本当は対等であるということをきちんとわかっていたからだと思う。対等だけれど、僕は俳優にダメを突きつける側だし、俳優は僕にダメをもらう側だし、しかしそこをお互いがきちんと理性的に把握していれば、それは上下関係や階級構造なんかではなくて、生産的なセッションの場になり得るんだ。

主人公の2人1役よりも個人的に英断果断であったと思うのは、「人が増える」という演出であった。今回の演出で、ヒラメや堀木といった重要人物たちが、それぞれ3人にまで増える。プラン段階では堀木は7人まで増える予定だったが(笑)、劇場規模の事情で3で打ち止めになっていた。香山リカさんや永井愛さん他、多くのゲストさんに「葉蔵の内面世界を演劇化していて見事」と好評を頂いたが、目の前の一人の言葉を必要以上に重く受け取ってしまう葉蔵、目の前の一人の存在を必要以上に恐ろしく感じてしまう葉蔵、という内面を描くに当たって、突然、何の前触れもなく人が増える、という演出は、観ていて面白かったな。台本段階ではない演出だったから、より自分としては面白かったんだ。

今回、演出的に気に入っている部分は、そういう「台本段階ではなかったプラン」だった。俺は演出家だぞー! と叫びたかったんだと思う。作家だぞー! という叫びは、『悪魔の絵本』で十分やっていたから、というわけでもないが、いずれにせよ、少しずつ自分が成熟もし安定もしている証左であると思う。

反省点は、こんなところに書くべきではないことばかりだが、バカなので書いておく。忘れちゃうし。
まずは上演時間の見積り。執筆段階で、と言うよりは、『人間失格』やる、と決めた段階で、甘かった。それでも原作の一部分だけやるのは観客に取って不親切だったと思うし、企画的に『人間失格』があったことで内容としても集客としてもいい効果があったとは思うが、甘かった。このこと書くと延々書いちゃうので次。
独白の使い方はそろそろ一考すべきだと感じた。特にコロ・塚越という独白慣れしている人に任せたことが、効果もあったが仇ともなった感じ。
劇構造としては、短編なのでしょうがないところはすっ飛ばすとして、もう一つ焦点を絞った方がよかったとも思う。途中から「わからない」「恐ろしい」の2点に絞って台本もカットしたり演出を変えたりもしたが、主題的に少し欲張り過ぎであったし、この2点に絞った再構築をすれば、また違う翻案・演出ができそう。いや、別の点に絞っても、また違う翻案・演出ができるんだけど。

最大の収穫は、この一言かもしれない。

最初は脚本、途中から演出、最後は俳優。お芝居作りっていつもそうなんだな。

前からわかっていたようで、今回より深く実感できたし、今後の指針にもなる。

まだまだ、作品については書ける。けど、もうやめとこう。律儀にも読んでる人、そろそろ疲れてきたでしょう? ごめんなさいね。でも、まだまだ書けちゃうんだ。それくらい、作り手は無駄なことも含めて、あれこれ考えているんだ。無駄なことも含めてね。

出演者について

別エントリーでまた書きます。何せ11人もいるので。

企画について:BUNGAKUで演劇をアウトリーチする試み

今回、「文学」というものを主軸に据えたのは、「ふだん演劇を観ないお客さんに劇場に来て欲しい」という制作総指揮・松枝さんの強い意向によるものであった。

我々演劇人は、「もっと演劇を観る人が増えてくれるといいなぁ」とぼやきながら、あまり具体的な行動をとらない。とっても、効果的でないことが多い。今回は、目に見えて「ふだん演劇を観ないお客さん」が足を運んでくれていた。それは、文学を題材にしたということ、文学を宣伝材料にしたということ、キャスティングに趣向を凝らしたということ、アフタートーク・ゲストに演劇界外の大物を積極的に招いたこと、など、とにかく松枝さんの尽力によるものが大きい。

特にアフタートーク・ゲストの呼び方は、ここでどこまでオープンにしていいものかわからないので口を閉ざしておくが、金で釣ったわけでもコネで引っ張ったわけでもなく、ひとえに松枝さんの情熱によるものである。嘘だ、と思って行動しない人間には、世界を変えることはできない。ほとんど飛び込み営業みたいなことをしていた。見習いたい。みんなで見習いたい。

千秋楽のアフタートークには、信じられないことが起こっていた。ふだん演劇を観ないお客さんや、4人の演出家の作品をどれも観たことがないというお客さんが、むしろマジョリティだったのだ。一番最初に売り切れたのが千秋楽だったので、演劇ファンが集まったのかしら、と思ったら、蓋を開けたら逆だった。これは、全く予想できないことだった。

すげーシンプルなことを書くと、あきらめちゃいけねぇんだ、ということを教えられた気がする。そういう無邪気で熱狂的なスタンスを、歳上に示されては、4人の中で一番若造だった自分としては、面目ない気持ちがするばかりだ。ニヒリズムに陥るのはまだ早いんだね。

企画について:観客投票とその結果

結果発表: 正しくも松枝日記より。1500名を超える来場者のうち、1000人近いお客様が投票してくれたようです。すごい!

1位 谷賢一演出「人間失格」(3058点取得)
(1位426票、2位331票、3位159票、4位43票)

2位 吉田小夏演出「燈籠」(2735点取得)
(1位302票、2位304票、3位265票、4位85票)

3位 松枝佳紀演出「ヴィヨンの妻」(2234点取得)
(1位191票、2位203票、3位310票、4位241票)

4位 広田淳一演出「HUMAN LOST」(1598点取得)
(1位76票、2位116票、3位192票、4位562票)

キャスト、スタッフ、ご来場の皆様のおかげさまで、総合一位でした。嬉しい。単純に総合一位であることよりも、45%近い人が一位に選んでくれたということが嬉しい。一位426票、二位331票であるから、76%を超える人が一位か二位に投票してくれたということになる。これはちょっとすごい数字だ。

作品論と少しかぶるけど、自分の方向性について考える。演劇悪魔なんて呼ばれるほど演劇狂いの自分だけれど、やっぱり根っこはポップ・アートの人なんだなぁ。太宰治を翻案する、と聞いたときに、『人間失格』は入れなければならないだろう、と考えた時点でポップ・アート寄りだし、お話としてわかりやすくなくちゃいけない、と考えた時点でポップ・アート寄りだし、四番目だし笑えると言うか肩の力を抜いて観れる瞬間がなけりゃ、と考えたところや、四番目だし導入部分でインパクトがあって引き付けるものをやらなくちゃ、と考えたところでポップ・アート寄りだ。

DULL-COLORED POPという劇団名は、本当に適切な名前だ。今は横文字ちょっと恥ずかしいけど。

そして、ポップであることは僕は演劇という瞬間の芸術には必ず必要なことだ、と思っていたし、今も思っているけれど、この得票順にはかなりの違和感も感じている。それについて詳しく書くことはここではしない。しかし、一言だけ書いておくと、僕は現場を同じくしてみて、演出家・広田淳一のほとんどファンのようになってしまった。演出力、想像力、気力、胆力、知力、教養、人柄、男気、その他もろもろ。集計結果の発表が遅れたのには、集計作業の大変さやタイミングの問題、その他もろもろいろいろあったのだが、最終的に広田さんのこんな一言がTwitterに踊った。

「企画そのものの勝利なんて絶対言っちゃダメだと思う。そんなこと言うなら最初から勝負を語るな、ってことになる。観客投票がはっきりしてんだからあれがすべてでしょう。谷、小夏、松枝、広田。の順です。」
http://twitter.com/#!/binirock/status/27219698540

「ヤシキの思ってくれたとおり、ガチンコ勝負です。制限時間を厳守していた広田が敗者なので、みな、言いにくいのです。谷チームは確かに20分という時間は超過していました。が、それを広田が認めたので勝負は成立です。」
http://twitter.com/#!/binirock/status/27219276931

「馴れ合いにしたくないから勝負形式はどうか」
という話になったのも広田さんの一言からだったし、そうして最後までフェアな勝負にこだわりきったのも彼、そうして真っ先に触れづらい話題に触れたのも彼であった。人はそれをロックと呼ぶだろう。呼ばない? 呼べよ。ロックだろう。

演出会議の最中でも、「長いから有利、短いから不利というわけではない」と語り、そうして真っ向から勝負をしていったのも彼であった。「お前んとこ長いから切れよ」と言ってもいい状況で、「作品のクオリティが下がるだけだから不毛なことは言わない」と許容してくれたのも彼であった。筋金入りの演劇人である。勝負に勝って相撲に負けた、とまでは言わないが、フンドシ一本貸してくれたのは間違いなく彼である。

そういうことを踏まえた上で、僕はあえて、一番面白かったのはうちだ、と言い切りたい。当たり前だろう? 自分の作品が一番だ、と思えない演出家は、さっさと廃業した方がいいのだ。それは僕も、広田淳一も、吉田小夏も、松枝佳紀もそう思っているに違いない。結果としては残酷な人気投票が残るだけだけれど、しかしそれもまた一つの事実ではある。

「芸術に点数付けは無意味だ」
なんて言い古され過ぎて今さら言っても価値のない言葉だから、僕は言わない。だって、それでもこれだけ、演劇だろうが映画だろうが音楽だろうが、点数付けがされているということは、現代の社会、あるいは観客は、確実に点数付けを必要としているんだ。良きにつけ悪しきにつけ。芸術に点数付けは無意味かもしれないが、必要とされている。僕は無意味だとは思わない。チケット代を払っている時点で、アートは一種の消費財でもあるからだ。

しかし、アートを単なる消費財としか考えられない人には、きちんとアートを作ることはできないだろうし、きちんとアートを観ることもできないだろう。

企画について:文学と演劇

最後に、文学と演劇について考えていることを書く。いや、小説と演劇について、と言った方が適切だろう。

今回のような企画をやればやるほど、あるいは小説について考えれば考えるほど、あるいは演劇について考えれば考えるほど、二つのメディアの食い合わせの悪さを痛感する。何故か多くの人が、小説を演劇にすることは、例えばサッカーを演劇にすることよりも簡単だろうと感じるだろう。それは誤解だ。小説を演劇にすることは、サッカーを演劇にすることと同じくらい難しい。全く別のメディアだからだ。

今回、葉蔵を2人1役にし、増殖する登場人物なんていう裏技的手法を使わざるを得なかったのも、そういう食い合わせの悪さがあるからだ。「え、でも、あの作品やこの作品はうまく行ってたじゃーん」と思って頂けたのなら、どうもありがとう。それは、その演出家たちが、名前だけでなくきちんと演出家・演劇家だったからできたことなんだと思っている。××××さんとか○○○○くんにやらせてご覧。「うへぇ」って感じになっちゃうから。

しかしこの企画はそれでもいい企画だったと思うんだ。そういう食い合わせの悪さを経て、しかしそれでも面白い作品が作れたときに、演劇とは一体何なのか、小説とは一体何なのか、というメディアの違いが浮き彫りになる。上演物としての『人間失格』が面白かったとしたら、それは何故なのか。原作より劣っていた部分があるとすれば、それは何故なのか。そこを考えるのが、作り手側の責務であると思っている。

俳優が立って喋ってりゃ演劇になる、という演劇が氾濫している昨今、演劇って一体何なのか、やっぱり考えるべきだと思うんだ。

最後に

いい座組に恵まれてよかった。みんなどうもありがとう。ということを、次のエントリーで書く。

そうして、来てくれた方々、本当、どうもありがとうございました。次も来ておくれ。次も絶対、面白いから。

大袈裟な話をすると、僕は『人間失格』をやったことで、かなり自信を取り戻した気でいる。正確に言えば、『人間失格』と『悪魔の絵本』をやったことによって。『幸せの歌をうたう犬ども』にしたって『着信音のあとに』にしたって『熱帯樹』にしたって『幸せを踏みにじる幸せ』にしたって大好きな作品だし、あの頃の自分にしか作れなかった作品だ。僕という人間は、気になること、興味のあること、引っ掛かっていること、納得できないこと、そういうものを、書くことで消化して、書くことで過去のものとして、何とかギリギリ生きている気がする。別に創作の欲求や喜びが人一倍強いとは思わない。書かなければいけないから書くのだ。

そういう流れの中に今までの作品も位置づけられてきたが、『人間失格』と『悪魔の絵本』で僕はひとまず自分の中で過去にしなければならないものをほとんどすべて書き終えた感じがしている。今、もうすでに次の原稿に向かっているが、そこには僕は未来を書き込んでいる。とてつもない名作が書けるような気さえしている。

そんな上演ができたからこそ、できそうな予感があったからこそ、こんなチラシを折り込んだんだ。

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乞うご期待。