PLAYNOTE 青☆組『忘却曲線』

2010年09月17日

青☆組『忘却曲線』

[演劇レビュー] 2010/09/17 15:42

Project BUNGAKUでもご一緒している吉田小夏嬢が作演出をしているので観に行った。アトリエ春風舎にて。

演劇の話をしようか。

僕はどうしても母親の死因が猫を助けようとしてトラックに轢かれた、という点が、わからない。母の死因は、恐らくは詩人であった父の出奔を機に破綻しかけていた精神が臨界点を超えた、というような理由であろう、と思っていたし、今物語を思い出してみても、そうであるべきように思う。しかし、実際は猫だった。

ここで僕は一気に物語がわからなくなった。記憶と戦い、記憶に殺される者もあれば(母親)、記憶を振り切って未来に目を挙げる、という者もいる(長女)、という話であるべきように思う。

わざと「あるべきように思う」という言葉遣いを使っているのは、この戯曲が、もはや現代口語演劇のフレームを外れつつあり、むしろクラシカルな文体や構成を持っているからである。本人もT・ウィリアムズを多少意識した、と言っていたし、挿入されている諸々の独白の使い方は近代以前の演劇を彷彿させる。台詞だって小夏嬢が狙えばもっと、いくらでも現代口語に崩せるだろうに、それをせず、割と古典的な口調をあえて選択している。

現代口語演劇でなら、人は猫で死ぬかもしれない。しかし、古典戯曲なら、人は前場のプロットに殺されるものだ。その辺りのちぐはぐさが、自分には、狙って起こしたズレ・歪みであるというよりは、不可解な消失点に映り、戯曲の太さを損なっていたように感じた。そう、太い、太くなる戯曲構造であったのだ。

今こうして書いたことは、どれももう、ほとんど完成された戯曲への批評である。僕はサルトルの戯曲を読んでもオニールの戯曲を読んでも同じような言葉遣いで書くだろう。僕には猫一点、そこがわからなかったが、どこに目を向けても軽く平均点を超えてくる丁寧な作り込みは円熟の感すら漂わせる。とりあえず次回も、次々回も、確実にいいものを見せてくるのだろう、という安心感、安定感は、ここだけはジェンダー論で語ってもいいかもしれない。安心できる劇団である。

しかし、猫一点、そこだけがわからぬ。彼女はどこかで「喪失の物語」と書いていたが、同時に再生の物語でもある、と書いていた。巧妙でキャッチーで、かつ詩的な、見事な舞台であったが、喪失はそんなに軽いものではない、とも感じた。それに大きく関連しているのは、やはり、どこまで行っても猫一点、猫一点なのだ。

ハムレットはレアティーズに殺されても、イギリス帰りの船の中でうっかり海賊に殺されたりはしないし、ヘッダ・ガブラーは短銃自殺はするだろうが、階段から落ちて死んだりはしない。猫一点。

敢えて言えば、記憶に殺される女性は少ないのかもしれない。女のもろさ、よりも、たくましさを描いた戯曲であったように思う。それならば猫でころりと死んでしまう人間の儚さは、わからないでもない。その点の、運命よりも偶然が人を殺す、という点は、実に現代口語演劇的な人間観であるように思えた。

補足。猫一点にこだわったが、それは、こだわるだけの理由がある作品であるということだ。こういう劇評を書くと、「谷くん青☆組ダメだったんだねー^^」みたいな絡み方をしてくる脳みその軽い人がいるので、蛇足にして補足ながら書いておいた。