PLAYNOTE 酔っ払った俺をぶん殴ってくれる貴方が欲しい

2010年07月30日

酔っ払った俺をぶん殴ってくれる貴方が欲しい

[雑記・メモ] 2010/07/30 04:57

煮詰まったら一杯飲む。一杯飲んだら何か書く。煮詰まったらもう一杯。そんな風にして、自分の人生の蝋燭を短くしていく生き方を、「お前はマジで時代遅れのデカダンスだなぁ、流行らないからやめろよ」と仰る貴方K、そう言いながら楽しんでらっしゃる貴方K、僕はそこを見抜いているつもりです。

以下いろいろ。

人は一秒で生まれ変われる、みたいなことを、JPOPだとかJ文学では割とあっさり言うけれど、ぼく、一秒は無理だと思うの。でも、一年あれば人間は生まれ変われる。一年前の自分と一年後の自分、どちらも俺にとっては他人の僕だ。

なぜそんなことを書くのかと言うと、煮詰まった勢いで過去のブログの記事を読み返したりしていたの。「書けない」で検索したら、出るわ出るわ。お前どんだけ書けないんだよ、って。一生言い続けるんだろうけれど、今回ばっかりは性質が違うので、戦々恐々としている自分です。

そうして、例えば『JANIS』の終演後に書いたブログだとか、去年のサラ・ケインの前に描いたブログだとか、読んでいたら、まるで自分が違う人間に思えて驚くのです。当時の僕に言いたい。あなたはとても無邪気に演劇というものを楽しんでいましたね。当時の俺は答えるだろう。馬鹿、そんな気楽なもんじゃねーよ。ここにもうすでに「最近の若いもんは」理論だとか「若い人はいいねぇ、何だってできる」理論が顔を出しているわけで、老いたる自分を感じてしまい、苦笑する。

こういう、誰にも意味の分からない記事を書くことは、むしろ今の僕の立場を考えるとマイナスなのだろうけど、そうやって粛々と少々としていくことは長い目で見てきっといいことじゃない。僕は金が稼ぎたいわけでも名声を得たいわけでもない、一生に一本でいいから、千年残る作品なり一行なりを書きたいだけだ。

と言っても今の僕はろくに書けていない。どこぞの作家が、「白紙の原稿用紙を前にして、一文字をひねりだすのに一日かかる。この恐怖がわかるだろうか?」みたいなことを書いていた。わかるか? あぁ、俺はわかるよ。だけど別に普通の人はわからなくていい。人間社会は、お互いの無理解と誤解で成り立っている。絶対的にそうなんだ。僕と君はペンギンと親子丼くらい違うし、僕とあなたはラッコとボールペンくらい違うし、俺とお前はごま油とヴァージニア・ウルフくらい違う。

どんどんと誰にもわからないことを書いていく。PLAYNOTEはこう見えて愛読者が多いようで、「雑誌を読むように楽しいです」なんて聞いたこちらがビビって土下座するような感想をくれる方がたくさんいるんだが、ほら、こうして誰にもわからないことを書いている時点で雑誌より、どんなに低級な雑誌より低級なんだよ。そこに新しい文学の形があるのかもしれない、とは思うけれどね。

僕の生活の中心がすっかり様変わりしてしまった。かつて演劇しか愛するものがなかった自分とは違って、今の僕には愛すべきものが腐るほどあって、たとえば冷蔵庫にチンゲン菜とキャベツとえのき茸とジャガイモとアボカドともやしがあるとして、そのすべてを腐らせずに使い切ることはほとんど不可能だと思うんだ。全部まとめて炒めたらどうか。多分おいしくない、それは。

だから僕はその中でどうしても失いたくないものを選んで料理したり買い足したりしている最近なんだが、そういう経済感覚自体が有害なのか、と思う夜も確かにあるんだ。以前の俺なら「冷蔵庫とか河川敷に投げ捨てちまえばいいよ、コンビニで弁当買えばいいし、食わなくたっていいじゃない」的な人間だったが、今の僕は「冷蔵庫があると食費が抑えられます」という人間になってしまっていて、でも昔々からの自分自身の檻から逃げられないから、逃げ出すのが怖いから、こうしてニコチンの深い煙草を吸ったり夜中に叫んだり酒を飲み尽くしたりしながら文章を書いている。台詞を書いている。言葉を書いている。僕は今、生まれ変わるちょうどその境目にいて、誰でもない感じになってしまっている。

急に話は変わるが、殺したい奴を少し殺せた気がしてハッピーなこの気持ちを、下手に隠そうとしない方がいい。自分の良心やプライドがわいのわいのと声を荒げるから、「許すことが許されることです」とか「憎しみは何も生まない」とか聖書チックなことが頭によぎる瞬間もあるんだが、端的に言うぞ、殺したい奴は殺した方がいいんだ。殴りたい奴は殴った方がいい。そして、自分がやりたくないことはやらない方がいい。どんな惨めな死に方をするとしても、自分自身に対して惨めであるよりは、その方がマシだろう。僕は、未完成かつ不完全かつ不良品な人間代表として、高らかに宣言したい。やっぱ、殺したい奴は殺したい。殺人犯は死刑にしちゃえ、というのが世論の趨勢である現代だが、殺人より重い罪が世の中にはいくらでもあるんだ。俺の右手の人差指を引っこ抜いてしまったお前は、死んでしまった方がいいんだよ。

だけど僕はやっぱり健全な市民生活を送っていく。家の隣に小さなまだ子供のカルガモが住み始めたので、そいつに毎日餌をやりたいと思うと、俺がパッパラパーに毎日生きて、新大久保で手に入れたハッパとチョコを三日に一回キメてる生活をして、食いたいときに焼肉食ってる生活してたら、カルガモに買ってやるエサ代がなくなってしまう。覚醒剤が高過ぎるのがいけないんだ。戦前は滋養強壮っぽい感じでどこの薬局でも売ってたんだから、もうちょっと安く提供してくれてもいいじゃない。こんな酔っ払いの与太文章を読んで「あいつはマジやばい、ガサ入れした方がいい」とか思ってるお気楽さんがいたとしたら、さっさと通報でもしたらいいんだ、うちからは何も出てこないから。

どこまでいってもご機嫌取りのアート界隈に生きていると、何だかしょっちゅう虚しい感じがしてくるよ。言論なり芸術なりが尊敬されてない時代に生きているからだ。こんなひでーブログをここまできちんと読んだ人は、相当マニアックな僕のファンで、僕が気になっているということはイコール僕よりもっとマシな芸術家をいくらでも好きなのだろうから、教養や文化偏差値で言えばかなり高いとこにいらっしゃる方々ばかりだと思うので、あなたには当てはまらない事柄です。でも、平成社会にアートは成立するのだろうか。成立する! と思って強く貫く胆力を、僕はもう失ってしまいそうです。

今、こうして書き殴っている文章は、ほとんどが無意味で無価値なものなのだし、ここまでマジメに読んでくれたあなたにも、「ごめんあんまり意味ない」って言って頭を下げたほうがいいような内容のものだけれど、これは完全に自分のために書いている文章なのです。そんなエゴイスティックな文章でも、「お前の言ってることよくわかる」なんてエスパーがいたのなら、是非ぼくの友達になって下さい。ぼくは友達が欲しいのです。

汝の隣人を愛せよ。とはよく言ったもので、自分の隣人を愛せなくなったら本当に人間はおしまいだ。お前の身近には素晴らしい人間が溢れている。そんなことはとっくに気づいているはずなのに、今の自分は、社会性だとか経済力だとかいう蔦に足を絡め取られて身動きができなくなっている。××がどんだけ偉いんだ。落ち目じゃねぇか。素人じゃねぇか。黙って粛々と仕事をしていろ。

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以上、すべて浮世の些事に匙を投げたような、つまらない愚痴ですけれども、どうしても守り抜きたいものがあるんだ。それを世間の人々はいいことだ、素晴らしいことだと言うかもしれないし、ドラゴンボールの鳥山明ですら「カカロット……、お前がナンバーワンだ! お前は負けないために戦っていた……」なんてすっげー陳腐なところで落しどころをつけてしまっていたけれど、果たしていいことなのかどうなのか、それすらわからない。確かにベジータはナメック星であっさり死んでるよりは、ブルマと結ばれた方がよかったのかもしれないけれど、でもベジータは結局バビディの魔力にわざとかかって悪魔に魂を売っていたよね。ベジータは、悪魔でいた方がよかったのかもしれない。

僕は今、たった二つの平仮名が並んでいるところを見ただけで、心がバラバラに崩れ落ち、怒りと憎しみと後悔で腹綿が煮えくり返り、そうして人生の無常と無情に心が打ち砕かれている。それは全治53年とそれ以上かかるから、どうしようもないことなんだ。

まだまだ愛について考える。無駄だと知りながら考える。愛の中身は性的衝動と自尊心と不安と孤独と、あと多分二つか三つで大体説明がつくと思うけど、何だかもっとファンタスティックな解答があるような気がして考える。実にくだらないものであると思うんだ。性的衝動はちょっとした弾みで誰かにふぁっと移ってしまうし、現実的に考えて百パーセントが理想通りの人間なんているわけがない。だけど、そういうことがわかった後の自分だからこそ、そういうふわふわと浮ついた心が価値あるものを生まないんだ、ということを理解し始めている気がする。愛とは時間である。そうして、時間とは忍耐、あるいは寛容である。衝動ではない。ただ、期待し過ぎたり入れ込み過ぎると酷い目見るから、結局人間は孤独に生きていくのが一番安全なのだろう。

足場はいつでも崩れるんだぜ、次の瞬間には、とわかっていながらも、今の足場に絶対的な信頼感と愛着を感じているし、それは幸福なことだと思う。殺したい人間がいる、なんて書くと物騒な感じがするけれど、あなたにも一人や二人、いるでしょう。仮に法律で罰せられないとすれば。

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文章を書くということは、本来もっと、ずっと素晴らしいことのはずなんだ。犬を犬と呼ぶ。ここに人間の知性がある、人間性の柱がある。犬は犬であって人ではないし、狼ではない。そういう区別が発生した瞬間に、「犬」という単語が生まれる。犬が生活と密着している地方では、さらに犬が細分化されて名付けられていく。物や現象に名前をつけるという行為自体が、人間の抽象的思考を象徴していると言えるんだ。この辺を詳しく知りたい方々はソシュールを読んで下さい。あいつマジで面白いから。

と、元に戻って、文章を書くということは、本当に、もっとずっと素晴らしいことのはずなんだ。もちろん絵画だって素晴らしいし、建築だって接客だって造船だって素晴らしい。だけど、そういう人間的営みの一切を可能にしている、抽象的思考能力の源泉にあるのは、名付けるという行為であり、文章というコミュニケーションなんだ。人間の歴史は、文字が発生してから急展開を迎える。文字は、書くということは、人生を一世一代のものではなくて、人生を連綿と続く歴史の中に組み込んだという点に於いて、とにかく凄まじい発明なんだよ。

ごめん、あれこれ端折って書いて。きちんと、全部、丁寧に書きたいけれど、誰が聞く耳を持ってくれるだろうか。どうせ誰も、一冊の小説ですら、二時間の戯曲ですらきちんとまともに読んでいないし、十七文字の川柳ですら噛み締めるように読んではいない。あなたに受信の意欲があれば、文章はもっとずっと素晴らしくなるというのに。

コメント

投稿者:shuko_i (2010年08月07日 03:27)

わからないけどわかります。谷さんの文章は読んでいて惹きつけられます。前の全治54.35年もそのまま短編の小説みたいで好きです。

投稿者:Kenichi Tani (2010年08月07日 17:39)

あああ、ありがとうございます。恐縮です。このあとまじで小説も出る予定なので、そちらもよろしくお願いします。