PLAYNOTE 例えば七夕の夜に

2010年07月07日

例えば七夕の夜に

[雑記・メモ] 2010/07/07 22:35

例えば七夕の夜に、あぁ一年も会えない織姫と彦星はそりゃあしんどいだろう、愛が深ければ深いほどしんどいだろう、と思うのは健全だろうけど、どうせベガもアルタイルもあっちこっちぶらぶらしている間に他の星座といちゃこらちゅっちゅと浮気火遊びアバンチュールの限りを尽しているに違いない、と思うのは不健全だが、話のネタとしてはこちらの方が面白い。

そう思ってしまうのが一番不健全だということもわかっている。が。

愛は麻薬だ、錯覚だ、大脳生理学的に言えば脳内物質の化学変化と男性ホルモンおよび女性ホルモンが大暴れして海綿体やら顔面やらが血走っている状態だ、と言ってしまえばそれまでだ。だけど、そういう生理学的な分析は、人文学を考える上ではあんまり有益なことではない。

生理学や脳科学をどこまでもどこまでも考え突き詰めれば、たぶん誰か人間の心の反応パターンをプログラム化したりシミュレーションしたり、というところまではできるだろうけど、例えば七夕の夜に、大事な人と一緒にいて、心がほっこりする感じ、この「感じ」を伝えるのが文学であって、この「感じ」を考えるのが人文学であって、この「感じ」を信じるのが愛なんだろう。

そう言えば昨日、7月6日はサラダ記念日でしたね。僕の本棚には『サラダ記念日』がきっちり収められていたはずなんだが、なぜか今見当たらないので、一番有名な句をとりあえずインターネットから引っ張ってくる。

『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

この短歌を読んでわいてくる「ほっこり」や「くすり」や「てれてれ」は、脳内物質やニューロンがどう結合してどう反応して、を分析することはできるだろうけど、「ほっこり」の感じを人に伝えるには、化学式を何十万個も並べるよりは、やっぱり上の一句を引いちまえばいいわけだから、文学という奴は多分いつまで経っても生き続ける。形態は変わるかもしれないけれど。

万智の一人百首というページを発見した。作者自らが自選百首を選んでいるので、そうだな、この機会に少しだけ読み返してみる。

生ビール買い求めいる君の手をふと見るそしてつくづくと見る(『サラダ記念日』)

「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君(『サラダ記念日』)

落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し(『サラダ記念日』)

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(『サラダ記念日』)

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(『サラダ記念日』)

恋という遊びをせんとや生まれけん かくれんぼして鬼ごっこして(『かぜのてのひら』)

昨日逢い今日逢うときに君が言う「久しぶりだな」そう久しぶり(『チョコレート革命』)

年下の男に「おまえ」と呼ばれていてぬるきミルクのような幸せ(『チョコレート革命』)

別れ話を抱えて君に会いにゆくこんな日も吾は「晴れ女」なり(『チョコレート革命』)

きつくきつく我の鋳型をとるように君は最後の抱擁をする(『チョコレート革命』)

シャンプーを選ぶ横顔見ておればさしこむように「好き」と思えり(『チョコレート革命』)

「今いちばん行きたいところを言ってごらん」行きたいところはあなたのところ(『とれたての短歌です。』)

まっさきに気がついている君からの手紙いちばん最後にあける(『とれたての短歌です。』)

一枚の葉書きを君に書くための旅かもしれぬ旅をつづける(『もうひとつの恋』)

俵万智すげぇ。生活のちょっとしたところから拾ってくる感性すげぇ。それを臆面も無く句にして詠んじゃって発表しちゃうところすげぇ。どこ行ったんだろう、俺の『サラダ記念日』

そうしてそんな七夕の夜に、じゃあ一体何を短冊に書こうか、と少し考えてみて、「いいものが書けますように」というここ数年繰り返しているお願いを書くことで脳内会議が一瞬にして終了する。全会一致。人と人との繋がりだったり、手のひらに乗っかった宝石だったり、おいしいものをおいしいと思う気持ちだったり、大抵のことは執筆さえうまくいってればうまくいくと思う。思っている。むしろ、大切なものを大切にするために、仕事がうまくいって欲しいと思う。

何のまとまりもないエントリーだけれど、書き続けること、吐き出し続けることが大事なのだと思うから、書き散らかしてそのままアップしておくことにする。