PLAYNOTE 幸福と愛について

2010年06月09日

幸福と愛について

[雑記・メモ] 2010/06/09 04:04

今年の2月に上演したお芝居のタイトルが『幸せの歌をうたう犬ども』で、今年の5月に上演したお芝居のタイトルが『幸せを踏みにじる幸せ』でした。どっちも「幸せ」って単語が入っている。で、去年からずっと頭の中の一番大事なところにぶら下がっている、現在執筆中の脚本のテーマが、「愛」。幸福はまだわかるが、愛についてまだまだ考える。

幸福について

幸福とは何だ、ということに対する回答は、もうほとんど自分の中で出てしまった。簡単なことだ。

幸福とは、身の回りにあるものに、満足することである。

幸福の鍵になるのは、例えば愛、平和、お金、衣食住、精神的安定、文化的充足、その他もろもろ、いくらでも要素をあげることができるけれど、一概に言ってどれも限りのないものである。後宮に40人のハーレムを囲ったトルコの王様だって「もっと愛が欲しい」って言い出したらハピネスは飛んでっちゃうし、湯水よりむしろ金の方が潤沢にあるってくらいのビル・ゲイツだって「もっと欲しい」と思ったり、あるいはお金じゃ買えない友達が欲しいって思ったら、ハピネスは消え去ってしまう。

上に挙げた「幸福の鍵」を、どれだけたくさん持っていても、「もっともっと」と思い始めてしまったらハピネスは消えてしまう。逆に、半年間も風呂に入っておらず残飯しか食っていなホームレスでも、青空の下で拾った本を読んでいて、俺って何て幸せなんだろう、と思えれば勝ち組。世界中に友達が二人しかいないぼっち野郎でも、「この二人がいてくれて俺は幸せ」と思うか、「俺には二人しか友達がいない」と思うかで、雲泥の差。幸福とは、身の回りにあるものに、満足することである。

とだけ書いておけばすごく道徳的で感動的なことだけれど、俺が思うに、これは日本人の精神性と関係があるのかもしれないけれど、幸福の鍵には実はもう一つあると思っている。それは、見下す対象がいるかどうかだ。「周りがどうであろうと、俺はこれでいいや」というのは理想的な状態だが、これはもはや一種の「悟り」に近い状態であって、そう簡単に会得できない精神状態である。欲望から自由になるために、バラモンや仏僧たちは断食や女人禁制といった苦行を積んで、俗世から精神を切り離すことで「俺はこれでいいや」に辿り着いた。

我々、俗世に首までどっぷり浸かっている人間は、どうしたって周囲と自分を比べてしまう。その際、必要なのは、「少なくともあいつよりマシ」「あいつらより上」という、見下す対象なのだ。悲しいことでも虚しいことでもない、もうほとんど生理的な事実である。一億総中流化、なんて言って、「上も下もない」=「みんなハッピー」という虚仮威しが聞いたのは高度経済成長の頃まで。あの頃は、「10年前の自分よりハッピー」という事実があった。だが、一億総中流=上も下もない、と思っていたら、いつの間にか上の連中がきっちり既得権益を抱え込んで、のみならず既得権益を守り続ける術をシステムとして法律や官僚機構に組み込んで、そういう子供だましがバレるに従い、日本の幸福度調査の平均点は下がり続けた。

最近になって2chのひろゆきが勝間和代と幸福論争をやっていた。ひろゆきの人を小馬鹿にしたような論調が少し鼻につくかもしれないが、彼はもはや現代版の仏僧である。「だらだらゲームしてられたらハッピー」という彼のスタンスは、「仏の慈悲以外、何も要らない」という僧侶のそれと、響き方は全然違うが、似たようなもんである。

「吾、唯足るを知る」という言葉が禅宗に伝わっているが、それはつまり「身の回りにあるものに満足すること」。幸福についてはあれこれまだまだ補足なり蛇足なりつけられるが、かなりシンプルに話せる。無駄にこれ以上議論を複雑にする必要性も感じられない。

ただ、前述の通り、どうしても我々は他人と自分を比べてしまう生き物だから、そこんところの確執を断ち切れない限り、そう簡単にハッピーにはなれないようである。

愛について

幸福とはそういうもんだ、としたとして、では愛とは一体何ぞや、ということになると、急に筆が重くなる。

いろんな要因がある。まず、愛という言葉の定義があまりに曖昧すぎる点。性愛、親子愛、隣人愛、友愛、わーまだまだいっぱい出てくるよ、だけど「性愛」一つをとっても、男→女の愛と、女→男の愛は違うものだし、親子愛にしたって、父親→子供の愛と、母親→子供の愛は違うだろう。もっと言えば、母親→息子への愛と、母親→娘への愛も違うんだろう。

いやいやこの場合性愛ってことでしょう、ということで、性愛に限定して話を進めても、また話がわかんなくなってくる。「下に心があるのが恋、真ん中に心があるのが愛」なんて言われて「なるほど!」って思えちゃうような人なら別に大した問題じゃないかもしれないけれど、そういう人はいずれ必ず真ん中に心があるはずの愛に足元を救われる。曰く、「人は最も愛するものによって、最も頻繁に欺かれる」。ざまぁみろ。

そもそも仏教における「愛」は、割と悪い意味で使われていたらしいんだな。その物に執着する、という意味で。キリスト教的な意味での愛(英語的な意味で、ではないから、LOVEとはちょっと違う)の場合、エロティックな意味合いがすっぽり抜け落ちてる、と言うより教義の段階で意識的にそういう意味合いを除外しているから片手落ちである。愛の格言とか死ぬほど読んだけど、たぶん一つや二つの格言で語り切れるような生易しいもんじゃない。

幸福に比べて愛を語るのが格段に難しい理由、それだけは簡単である。幸福は、一人でも語れる。さっき出した適当な例で申し訳ないが、「俺ホームレスだがハッピーだし」はあり得るし、「俺毎日ゲームできてりゃ幸せだわ」もあり得る、「吾唯足るを知る」状態が幸福なのに対して、愛は一人では語れない。J-POPの歌詞みたいなこと書いてるけど、俺は大真面目なんだぜ。

「あの人への愛を胸の引き出しにしまって、これからも生きていきます」
という愛だって、今はもういない「あの人」を抜きにしては語れない。
「あの人への愛を胸の引き出しにしまって、これからも生きていきます」
と葬式で涙ながらの微笑みで語った婦人がいたとして、その後彼女の下に、5歳くらいの子供の手を引いたうら若い女が訪ねてきて、「実はこの子、あの人の……」と言ったら崩壊するし、
「あの人への愛を胸の引き出しにしまって、これからも生きていきます」
と最愛の婚約者の命を白血病によって奪われた若い男がいたとして、彼が十数年ぶりの同窓会で再開した初恋の彼女が思い出以上にビューティフルになっていてしかも最近別れたばっか、とかなったらグラついちゃうのも線としてはある。

「そんなもの、本物の愛じゃないからだ」
とか言う御仁はまだ愛の複雑さを身を持って体験していない輩だろう。大体、こういう、婚前交渉ばっちこいで、ほとんどフリーセックスさながらのモラリティ、バツイチバツニ当たり前な社会状況自体が、「愛は壊れるもの、壊れたらまた探すもの」という風潮にびゅんびゅん追い風吹かせている。

話が随分と逸れた。これ自体が愛を語る複雑さを示す好例である、とふんぞり返ってもいられない。愛は一人では語り得ない、というのが論点であった。

多分、地球上にただ一人取り残されたとして、それでも幸福は感じることができるだろうけれど、地球上にただ一人取り残されたとして、友人や恋人はおろか、ペットや趣味、仕事の記憶などすべてイレースされた人間がいたとしたら、そいつは多分もう二度と愛という概念を発明することはできないだろう。実体のあるなしを問わず、客体を想定し得ない状況では、愛は生まれ得ない。

永遠の愛、という存在自体が、偶然か不幸かによる産物でしかないのだろう。ならば愛を一過性のもの、現象的なものとして想定し、定義付けを考えたとしても、やはりそう一言二言で語ることはできそうにもない。愛は一人では語れない、という前提で話を進めると、最低でも二人の存在を想定する必要がある。この場合、相手はモノでもいいし(人形愛など)、哲学的ゾンビ(相手が主体的意志を持っていない)でもいいだろうが、一般的な愛の状態を考えようとするならば、やはり主体的な意思、自由意志というものを持った二つ以上の存在が必要になる(自由意志はあり得るのか、とか、主体的であるとはどういうことか、とかいう議論は、論文じゃねーんだから放っておく)。愛を「二つ以上の意思を持った存在の間に発生し得る何らかの状態」とだけ想定して話を進めるとしても、もうほとんど無限に近づく順列組み合わせを検討しなければならなくなる。

* * *

今の僕にとって幸いなことは、与えられた仕事が「愛に定義を与えよ」ではなく、「愛を題材に一本書け」というものであるということだ。愛を題材に書かれた一本。例えば『ロミオとジュリエット』はそうだろう。でもあれには愛のすべては書かれていない。『マノン・レスコー』もそうだろう。でもあれには愛のすべては書かれていない。『春琴抄』もそうだろう。でもあれには(以下略)。およそ世界中のどんな書物にも、愛のすべてを書いたものは存在しない。そんなものが書けたらそれは奇跡というか歴史的なことだろうけど、どうやらそれは無理みたいだ。だけど、確実に、そして的確に、愛を描いた作品というものは存在する。

10月にTheatre Polyphonicという団体で上演されます。頑張ります。今週はずっと書いてるから付き合い悪いけど、ごめんよ。

コメント

投稿者: (2010年06月12日 17:31)