PLAYNOTE 夜は短し

2010年05月01日

夜は短し

[雑記・メモ] 2010/05/01 23:50

今日は日本語を読むの稽古に行き、三軒茶屋でサブウェイを2回食い、夜は10月のTheare Polyphonicのオーディションへ顔を出し、合間と寝る前起きた後に台本を書き、そして環七にふらつきながら家路につく私である。

オーディションは刺激になった。演劇。演劇を頑張ってる連中と50人くらいまとめて会うわけで、それはもちろん触発される。ただ台詞を覚えているというだけで感動する。あぁ、あなたはゆうべ、テキストと向かい合ったのですね。眠い目をこすりながら、一行一行、確認したのですね。今日もここに来る途中の電車の中で諳んじて、今はその頼りない命綱に必死にしがみついているのですね。もはやオーディションとは若干違う観点も入っているが、いやいや違う、そういう必死さに触れることは、癒しになるのさ。

とか考えてる隙にちゃらけたネーチャンにドンキのレジで割り込みされて、だが怒る気もわかない。それくらいに疲れている。今日は、家に帰ったらすぐに寝よう。あぁもちろん、浮かんだアイディアだけはメモにとって。

ロミオとジュリエット。不朽の戯曲だ。骨格が素晴らしいだけでなく、台詞に筋力がある。三人姉妹。これも不滅の戯曲だろう。大上段の悲劇ではない、ユーモラスな観点から悲劇をすくいとっている。それと並べて自作戯曲のいくつかが朗読された。奈津美シュザンヌや清水マリーと言った「他の誰でもなかったもの」が、演技を通して別の肉体を手に入れ、音を発していく。そうするとようやく僕は、自分の戯曲が、自分の言葉だったのだ、ということを信じられるような気がしてくる。あの戯曲を書いたのは、俺なのだ。

Setopianicsというアーティストの曲にちらっとハマる。綺麗だ。インストだけど、綺麗だ。

出不精で付き合い下手でネクラで内向的でペシミスティックで後ろ向きな僕が、最近は必要に迫られて外出を繰り返している。それは一見すると台本を書く上で障害にしかならないように思えるが、思いのほか効果的だ。それは、気晴らしとか気分転換という意味ではない。気晴らしも気分転換も必要ないんだ、調子がいいときには。そして、調子が悪いときには気晴らしも気分転換も意味がない。僕が外で活動して持ち帰ってくるのは、何て言ったらいいんだろう、刺激って言うと安いしインスピレーションって言うと大袈裟だけどね、そういうものなんだ。

最近、人に酒を隠されるという史上初の体験をした。一日以上飲まないでいて、あれ、そういえば酒の瓶がねぇな、と思って気がついたら、急に意識が変わってきた。あぁ、そうか、なるほど、俺はとうとうアル中扱いなのだな。そんな最中にひょいっと人間失格の一節を思い出す。

自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前の事だものなあ、なんて言われると、何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした。

今回とても同じことで、「お酒を飲んじゃいけないよ」と言われると、何だか飲まないと悪いような、期待にそむくような、変な錯覚が起こって、すぐに躍起になって飲んでしまうのです。かと言って誰が悪いのかと言えば俺が悪いのは明々白々なのだから、どうにも言わないでよろしい。

巷では「谷賢一はあんまりにも飲み過ぎている」という噂が立っているようだし、別にそれを否定もしないし、人に体調のことを聞かれると「相変わらずゲロゲロ吐いてます」というのがテンプレになっているけれど、皆さんは太宰治という優れた先人をご存知なのですから、僕のような酔狂人の言うことを真に受けてはいけません。酒は一日一杯まで。体調はすこぶるよろしい。そう思っていて構わない。

12時を回った。今から書くのも悪くないが、さすがに体がヘトヘトなので、ひと眠りしてそれから書くことにする。

夜は短し。文学的に、演劇的に生きていたいものだ。もう5月。あとちょっとで僕の厄年も終わろうというもんだ。

いい本が書ければ命なんか要らない、と思うのは嘘ではない。嘘ではないが、いい命を送らなければいい台本も書けないのだ。それは、体調がいいとか気分がいいとかとは、また別の問題である。

まずい、書きすぎた。寝よう。