PLAYNOTE 夏目漱石『明暗』

2010年04月11日

夏目漱石『明暗』

[読書] 2010/04/11 20:36

執筆に行き詰まると本棚の本を引っ張り出してきて読んだりする。外に遊びに出たり人と会ったりするよりは時間をとらないし、いい文章を読むとこちらも気が引き締まるし、行き詰まった上での現実逃避と言えども文章に触れているというのはまだ罪悪感が薄い。2年ほど前に夏目漱石を題材にした戯曲を物したときに流し読みしてそのまま放置していた漱石の絶筆『明暗』を読んだ。

読み終えて、僕の中で漱石が死んでしまった。<未完>の2文字を読んで、漱石の死という実感が沸いたのだ。

芥川なら『歯車』の最後の一文、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」を読む度に、太宰なら桜桃のとりわけ印象的なフレーズ「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」を読む度に、もう一度自分の中で「彼は死んだのだ」という思いが湧いてくる。漱石は<未完>の2字で死んでしまった。しかも、他人によって書き足された<未完>の2字で。

    ※もちろん芥川と太宰の絶筆がそれぞれ別の作品だったことはわかっている上で、象徴的な2作としてこれらを挙げている。

芥川や太宰は死ぬしかなかったな、という感じがするし、生き延びてもあれ以上の本は書けなかったように思う、などと書くと乱暴だが、死というものが作品の中にエキスとして染み込んでいる感じがする。彼らは明らかに自発的な意思で、つまり前向きに自殺というものを選んでおり、その自意識を一つの主題として作品に盛り込んでいるから当然だ、というのが理由の一つだが、何も意識的な作用だけがうかがえるのではない。言わば無意識に滲み出て文章に染みを作っている。死というものの影が絶筆の瞬間だけでなく彼らの生活に入り込み、休みなく非常灯を回していて、それが期せずして文章に滲み出ていたのではないだろうか。

だから、僕はこの2人に関しては、「もし生き長らえていたら……」という妄想を抱くことすらしない。想像がつかない。太宰には同じく未完の作品が残されているが、やはりああいう滲み方のする筆致で原稿用紙を汚しているのだ、「書き続けたい」という意図よりも、「おしまいだよ、グッド・バイ」という気持ちの方が強かったのではないかしらと思う。勝手な感傷と私的な偏愛に誘導された推論だが、僕にはそう思える。

だが、漱石の『明暗』は、悲劇的な終わり方だ。ある意味、自死という形をもって障害を終えた芥川や太宰の絶筆が、内容は重いものの、作品世界をきちんと円弧を閉じ、せいせいした感じすら読み手に与えてくれるのに対して、漱石の『明暗』は、あまりにも気の毒な終わり方である。物語自身が、書き継いで欲しいと叫んでいる声が聴こえるようだ。

夏目漱石は1916年の12月9日に、胃潰瘍による大内出血によって死亡。机の上には「189」と章番号だけが打たれ、一行目が書かれる前の原稿用紙が置かれていたという。

* * *

さて『明暗』だが、小説のお手本のようでもあり、小説の枠組みをはみ出した怪物のような作品でもあり、なんとも面妖な読み応えだった。ただし、多くの漱石ファンが「明暗が漱石文学の到達点」と語る理由はよくわかった。未完ではあるが、十分に作品としての魅力や骨格を備えたものであり、鑑賞に耐えるどころか一級品であることを考えれば、下手な完成品よりもよっぽど「完成」していると言えるかもしれない。

始まり方の地味な話だ。津田という男が痔を患って医師にそれを診てもらっているシーンから始まり、入院しないといけないからといって上司の許可をとったり親戚に挨拶に出向いたりしているうちに200ページくらいが終わる。ここまでは、文章表現の巧さを味わう楽しみはあるものの、物語のつくりとしては退屈だった。

だが、漱石は、自著の中でも最大の長編として計画していたこの小説のために、驚くべき緻密さを持ってここまでを書き下ろしていた。ここまでで微に入り細を穿って語られた人間関係は、すべてこの後、津田が入院してからの伏線として開花する。計画的に敷かれたレールの上を順調に走っていた物語は、ここに来て突如小さな小石につまづいて揺れ始め、脱輪し、崖を転げ落ちるようにして進んでいく。その脱輪の契機となった小石や、転げ落ちる崖の急落さえも計画的であったのだから恐ろしい。こんなものを新聞の連載小説でやっていたのだから、本当に常軌を逸する筆力である。

金の無心や夫婦のちょっとしたすれ違いから始まったトラブルは、津田の入院を機にその規模を広げ、それまでの登場人物たちの思惑が複雑に入り組んだ残酷な心理劇として展開していく。この下りが、もう本当に手に汗を握ると安い形容をしていいほど、面白い。人が死んだとか誰と誰が殴り合ったとか夜中にねぐらに忍び行ったとか、そういったサスペンス的な要素は一つもなく、ただちょっとした病室での口論だとか、不意の訪問だとか、あくまでも日常的な事件を通して、サスペンス以上にスリリングなやりとりを描き出している。ただ人の心理がぶつかるのを描くだけでこんなにもスリルを描いているというのが素晴らしいし、しかしスリラーにはならず心理劇として『こころ』や『門』『それから』といった名作以上の機微を描いているというのがまた恐れ入る。

津田やお延、お秀や小林といった人物たちのキャラクターが実に立っている。発する一語一語にそれぞれの歩んできた人生やコンプレックスが反映されているかのような当意即妙の哲学がすり込まれているのだ。三人称である利点を活かしてそれぞれの人物に公平に目を向けながら、だがしかし津田を中心とした視点のときとお延を中心とした視点のときではお互いから見える世界がまるで違うという離れ業をやっている。これは他の漱石作品には見られないことで、漱石の小説芸術の円熟を感じさせる。

それでも、やはり、未完なのだ。ここまで読ませておいて、引き込んでおいて、未完なのだ。あと一年、生き長らえていたら、完結していただろう。いや、ことによっては半年で足りたかもしれない。晩年には則天去私ということを言った漱石だが、このタイミングで彼の命を奪った天というものは、全く非道なもんだ。

物語は、津田の心に病的な影を落とし、それによって周囲の人々との関係にある種の歪みを生じさせしめている清子という女と、津田が再会したところで終わっている。物語中盤で突然名前が登場し、それによってそれまでの伏線と葛藤をぴたりと繋ぎ合わせてしまう謎の女・清子の正体が、今まさに明かされる、というところで、カット・アウトでジ・エンド、グッド・バイなのであるから、……あまりにも酷いタイミングだ。

この『明暗』はどのように書き継がれたはずだったであろうか? 読者のみならず書き手をも刺激するこの問題に対して、片手では足りぬ数の作家がそれぞれの『明暗』を書き、世間に発表しているが、当然僕も気になるし、妄想は膨らむので、自分なりの予感というものを書き残しておこうと思う。

巻末の解説で大江健三郎がこの作品の構造性と、後半に至って突如として登場した象徴主義的な要素を含んだ文章表現に注目している。それまで磨き上げられた硬質なリアリズムによって綴られていた物語は、津田が静養先の温泉地へ向かう頃を契機に象徴的なイメージへの関心を強めて著述されるようになっている。また、それまで昼の物語であった『明暗』は、この辺りを堺に作品中で描かれている時間帯としても内容が持つ雰囲気としても「夜」の物語として姿を変えている。これは、興味深い指摘だった。

だが僕はやはり、この作品がこのまま象徴的な、あるいは夜的な物語で終わるとは思えない。何故かと言えば、直感としか言いようがないのだが、あえて理由をこじつけるのならば、他の漱石作品を眺めたときに、そして『明暗』という作品そのものを眺めたときに、つまり漱石の作家性というものを考えたときに、そういう深刻でかつ抽象的な終わり方はしないのではないか、という偏見があるからだ。

偏見、と書いたのは、この作品が今までと違ったかもしれないじゃないか、という可能性を排除しきれないからだ。事実、『明暗』の前に書き上げた長編小説である『道草』では、過去の漱石作品に比してある種異常なレベルで深刻さの度合いが増しており、かつ私小説的なニュアンスが増えているというのは多く指摘されるところである。漱石は変化しつつあった。

だが、『道草』においてもやはり、漱石はリアリズムというか、人間同士の、世間様の恐ろしさというものを主軸に据えている。漱石は恐らく、物語の最終的な落とし所を、津田の個人的な煩悶や情念にフォーカスしないだろうし、象徴的な叙述に内容を予言させるというような手法を取らないだろう。つまり、津田は清子と会って、津田も変化する、清子も変化するが、その結果、より地獄的な人間関係に突き戻されて終わるのではないか、と僕には予感される。

より地獄的な、とは、もちろん、お秀や吉川婦人、小林、そしてとりわけお延のいる世界のことである。津田が過去に清子を愛していた、という、お延にとっては最も想像したくない事実はお延の面前に突きつけられるだろうし、清子という反逆者をどう記憶の中で処理するかという問題について逃げを打ってばかりいた津田は、四方を塞がれることになるだろう。津田が清子とくっつくだとか、逆に津田がお延と別れるだとか、そういう安易な筋立ては絶対にあり得ないから、津田はお延と一緒にどうにも逃れられない人間連鎖の中に閉じ込められていくことになるだろう。

この先の展開なんか予想しようとすればいくらでもでっちあげることができる。例えばお延が妊娠していたことがわかるだとか、お延と清子が対面して津田は洗濯を迫られるだとか、お延に詰問されて津田は真実を暴露するだとか、だがそういうわかりやすい筋立ては絶対に置きないだろう。この小説において、絶筆の部分まで延々と描かれていたのは、「相手の腹がわからないという不安」であり、「相手をだまくらかし我田引水して世間を渡り、なおも露見していないエゴイズム」といったものであり、陽光のもとぶつかりあう2つの意思なんてものはこの先も描かれないだろうと思う。津田とお延・お秀の3人が病室で論をぶつけるシーンはかなり「激しい」シーンだと思うが、それも言葉上の辛辣さよりも、その内側、腹の中で抱えている危機感や虚栄心、自己愛といったものの方がよほど残酷に映る。

表面上の対立を「明暗」のうち「明」として、腹の中での猜疑心や不安不信を「暗」とするならば、この小説は一貫して「暗」を描いている。だから僕は、小説『明暗』のラストはきっと、とびっきり「明」るい、何事もないかのような日常風景の中に津田とお延がいて、2人ともさらさらと笑ったりしているが、胸中にはこれまで以上の「暗」を抱えており、「明暗」のコントラストが最も強くなる形で終わるのではないか、と考えてみる。津田とお延、2人にとって最大の打撃とは、実は相手の愛情を失うことではなく、自分の矜持をへし折られることだろうから、津田は自尊心を失うような「何か」を是非とも実行しなければならない状況に置かれるだろう、お延は津田から愛されているという自信を失い自分の人生が失敗だったということを認めざるを得なくなるだろう。

だが、かと言ってお延は『ノラ』のように出奔したりはしないだろうし、津田は『こころ』の先生のように自殺したりはしない。僕は『こころ』に登場する「先生」は、漱石文学中で最大級にロマンチックな存在であると思っている。あれは主人公ではない人間だから許された逃げ方である。漱石は、いや、漱石の主人公は、ああいうロマンチックな逃げ方は許されない。あくまで陳腐で愚劣な蔑まれるべき現実の中で、諦めに身を浸しながらも傷の痛みを背負い込んで、また惨めに日常を生きていくことしか、彼らには許されていないのだ。

漱石文学は私小説的な要素が大層少ないように思われているが、実はそうではない。モチーフや主題に関して言えば、かなり換骨奪胎されているとはいえ、漱石自身のエピソードが盛り込まれている。だから、津田と清子のおしまいは、いい意味でも悪い意味でもさっぱりした、劇的な終わり方にはなるはずがない。漱石自身もそうであった。そして、漱石が痔や潰瘍や細君の気性や人付き合いやに悩まされながら、自殺のようなロマンチックな死に方や他殺のようなドラマチックな死に方を選ばなかった、あるいは選べなかったように、津田とお延もずるずると生きていくのだろう。

過去の漱石作品から演繹すると、僕はそんな風に思うが、そうではないとしたら。全く今までと異なる主人公像や顛末を漱石が用意していたとしたら。……それこそ、あのタイミングでの喀血・頓死というのは、悔やんでも悔やみきれない。

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