PLAYNOTE 芥川龍之介の評伝2つ

2010年03月05日

芥川龍之介の評伝2つ

[読書] 2010/03/05 06:57

今書いている原稿の参考文献として購入。合間合間に読んだものだったけれど、面白かった。こういう本ならいくらでも読める。

1冊目は高宮檀氏による『芥川龍之介の愛した女性―「薮の中」と「或阿呆の一生」に見る』。芥川から「動物的本能の強い」女性と評され、たびたび「愁人」という仮名で日記に名前の登場する女流歌人の秀しげ子と、『或阿呆の一生』に「月の光りの中にいるよう」な女として表現され、三たびも登場している野々口豊という2人の女。

芥川は晩年のアフォリズム連載『侏儒の言葉』において、こんな言葉を残している。

女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

作家で「女嫌い」と言えば自分は真っ先にシェイクスピアが思い浮かぶが、次に芥川も「女嫌い」においては一歩も譲らない。その好例が芥川屈指の傑作『藪の中』における真砂というファム・ファタールの存在だ。詳しくは『藪の中』を読んでもらうとしても、女=罪過の根源であると断じて憎み蔑むようなトーンではなく、その罪深さをわかった上でもその容色や美に惹かれてしまうという点を芥川は書いている。一言に「女嫌い」というのは間違いかもしれないが、酒飲みが「好きで飲んでるわけじゃあない」と言うような相克を抱えた上で酒を愛しもし憎みもする、そういう風に芥川は女性性と向き合っている。

そんな芥川の人生を引っかき回した女たちなのだから、さぞ壮絶なエピソードが出て来るのだろうと踏んで購入。芥川の日記はもちろん、書簡集や当時の天気、鉄道時刻表といった資料まで持ち出して芥川と女たちの接点を浮き彫りにし、さらに作品との関係性を論じる労作である。秀しげ子は『藪の中』における「真砂」、野々口豊は『或阿呆の一生』における月下の麗人として論証しており、圧倒的な調査料でそれに説得力を持ち込んでいる。

2人の人物については、その両親から来歴に至るまでつまびらかに紹介されているが、やや芥川とのエピソードに関しては描写が少ない気がした。ほとんど研究者向けなのかな、これ。ただ、その分読み応えあります。

こちらはさらっと新書の評伝。芥川の人生を駆け足に一望できる、よくまとまった一冊。ターニングポイントとなったいくつかの作品(『羅生門』『鼻』ほか)については、芥川の個人史と引っ掛けた上での解読・解説がなされていて、面白かった。

* * *

芥川は何故死んだのか、なんて、今さら疑問に思っている人は少ないのだろう。だが、僕は未だにどうしても腑に落ちないところがある。

彼の作品は奇妙な湿度を持っている。例えばリアリズム小説風に娑婆苦を描いた傑作として『一塊の土』や『玄鶴山房』なんてほとんど精巧な工芸品に近い完成度を誇っている上、描かれている情景としてはまさに凄惨、まさに娑婆苦という言葉が相応しい、生存上のどん詰まりが小説化されているわけだが、それでもどこかで芥川は、娑婆苦を相対化できていたような感じがするのである。「何でこんなに人生は苦しいのだ」と机を拳で殴っているような感じがしない、むしろ、「人生は苦しい」と深刻そうに言った後にペロッと舌を出して「まぁ、しょうがないよね」と達観・諦観しているような感じがある。

ただ、『歯車』や『或阿呆の一生』に見られる生々しさだけは、それまでの精巧な工芸品めいた芥川作品の印象と異なり、読んでいるこちらの精神が犯されるような生々しさ、不安定さを持って迫ってくる。カフカの『城』や『審判』、『田舎医者』なんかに通じる不気味さがある。芥川が死んじまった実際上の理由は、上記2冊を読めば十分に理解もできるし結論を出せると思うが、一体どういう心情であったのかは、まだ自分にはよくわからない。

とにかく、引っ掛かる作家なんだ。