PLAYNOTE 部屋

2010年02月19日

部屋

[雑記・メモ] 2010/02/19 06:24

昨夜は稽古を早上がりして吉野屋で卵とじ何とか定食を食べ、平田オリザの本を読みながら帰路についた。iPodのUSB端子接続部分が壊れてしまったらしく、充電できないのだから、音楽は聴かずに帰った。何かをしていないと落ち着かない自分は、無音に静まる代田橋の夜道を、すり抜けるようにして家路についた。

家に帰ってからミュージカルの台本をチェックしたり今書いている台本のプロットを叩き直したりしながら、畳んで部屋の隅に重ねた布団の上に寝転がっていると、いつの間にか眠っていた。2時前に目を覚まして、再度原稿に向かうが、どうしても書き出しがまとまらず、参考のために2・3冊本を読んだりした。

1つはウニカ・チュルンの『ジャスミンおとこ』。ハンス・ベルメールの妻だった統合失調症患者の女が綴った手記で、三人称で書かれた独白という異様な文体を持つこの書物は、僕にとってどんな時でも霊感を与えてくれる重要な書物だ。アナグラム詩に関する一節を読んでいて、文章は、意図よりも偶然によって紡がれるのだということを思い出しはしたものの、偶然に身を任せるほど勇敢ではない今の自分を俯瞰して、腐る。気が腐るのだ。書けない自分というものを直視することは。

続いて芥川龍之介の『或阿呆の一生』。いつ何時読んでも美しく陰鬱で底冷えする1冊、であるはずだが、今日の僕は気がかりな懸念がいくつも頭の中に蜘蛛の巣をはっていて、どの文章も素通りしていく感覚がある。だが、1つの事実に気づいた。この小説において芥川は、意識的にか無意識にかは判らないが、道や枝といった無生物を主語としてそれぞれの断片を書いている場合が多い。ウニカ・チュルンが三人称独白という奇妙な文体を使ったように、ここにおいて芥川は、道や木の枝、病室の廊下といった風景を、いわゆる心象風景や象徴としてではなく、主語として用いている。離人症的な兆候ともとれるし、一人称独白という形式を取った場合に逃れられなくなる泥臭さを嫌ったものであるとも勘繰れる。だが、おそらくは無意識的に行われたものだろう。意識的に行ったにしてはルールが徹底されておらず、ときおり「僕」が主語となって断片を紡いでいる。

だが、前述の通り、無意識的な偶然によって紡がれるものにこそ、重要な断片というものは、発見されうるのである。作家がしたり顔に「どうだ、この効果、うまいだろう」といって書いた部分には、流し読みの読者は感心するが、真剣に読み取ろうという読者にとっては技巧が立って鬱陶しい。

『或阿呆の一生』で飽き足らず、『歯車』も再読した。これも、初めて読んだとき背筋の凍る思いのした芥川最高傑作の一つだが、今日の自分は妙に冷静にこの完全に狂った短編を読みこなした。イメージの連鎖がもたらす不吉な予兆、という物語の鍵を訴えるには、構成が杜撰な感じがしないでもないが、この主題を持った話が例えば『杜子春』や『蜘蛛の糸』ほどの完成度を持った構成で綴られていたとしたら、やはり自分は「技巧が立って鬱陶しい」と感じるはずだ。以前にこの短編を読んだときの僕は芥川の立場に近い位置にいて、感応力を存分に発揮することが出来たけれども、今の僕はある意味では芥川の正反対に座している。それは正直に書いて情人との関係という意味においてだ。僕と彼が共有する娑婆苦という感覚を除いては、感応できる部分が少なかったらしい。

とにかくも3つも作品を読み返してみて感じるのは、とかく理性に傾いた作品こそ粉飾された気取りに満ちた、薄ペらいものになりかねないということだ。効果や構成ということよりも、文章が持つ色気のようなものを大事にしなくちゃいけないな。

そういうことを書いている最中からずっと、部屋の外ではエアコンの室外機が「ブウウ……ン」という低い唸り声を上げ続けている。気がかりな音が僕をどうしても邪魔しようとする。先ほどはトイレに立った際、便器についた汚れを見て、初めてこの部屋を訪れたときのことを思い出したりした。ここに暮らして間もなく半年が経とうとしていて、床に煙草の焦げ目がついたり、壁に物を引っ掻いた跡がついたり、部屋のそこここに生活の埃が溜まったりして、経年劣化、時間の経過をまざまざ感じる。あのとき、この部屋のドアをひねった自分は、複雑な闘争の中にいて、だがしかし割とシンプルに物事に向き合っていた気がする。目指すべき場所がしっかりわかっていたということだ。今ではどうだろうか。今はもう、魑魅魍魎百鬼夜行のただ中にぶち込まれて、延々と続く煩悩の連鎖の中で、ただそこから抜け出そうと東西南北右往左往どこでもいいから駆け出そうとしている。そのせいで同じ場所をぐるぐる回っているんだろう。

「随分疲れているようだけれど大丈夫?」というメールが届く。大丈夫でなかったらどうしたらいいのかは書いていない。だが、そういうお情けを頂いていることに、愛や友情や慈しみを向けられていることに、僕はえらく恐縮している。あなたが知っている私は、もう随分昔の自分かもしれない。過去の台本を読み返すと、もうほとんど別人が書いた物のように思えるからだ。だからこそ新しい1本を書かなければならないのだが…。

生物は系統進化を繰り返す、と、ヘッケルだっけ、誰だっけ、そんなことを言ったけれども、俺もまた系統進化をやり直しているのかもしれない。

こうしてキーボードを叩くのは、本当に書かなければならないものを書くための、指慣らしです。