PLAYNOTE パスカル・ランベール作・演出『演劇という芸術』『自分のこの手で』

2009年11月23日

パスカル・ランベール作・演出『演劇という芸術』『自分のこの手で』

[演劇レビュー] 2009/11/23 01:10

最も身近で最も敬愛する演劇人の一人・吉田小夏嬢からお誘いを頂いたので観に行った。観に行ったら、とんでもない掘り出し物であった。駒場アゴラ劇場にて。明日までやってるから見逃さないで欲しい。

パスカル・ランベールというフランス人の作・演出。出演もフランス人、短編一人芝居×2本。

1本目、『自分のこの手で』。これがもう衝撃であった。始まってから5分くらい、真っ暗闇に俳優の声だけが響き、字幕が見えるだけ。そんなん普通退屈するんだけれど、テキストが余りにも美しく、詩的で、退屈どころかもう興奮していた。手応えとしては、シュールレアリスム詩とか、デカダンスの詩人たちとか、無頼派とか、不条理劇とか、浅井健一とか、まぁ俺の好きそうなところの要素を全部突っ込んだようで、シビれ続けていた。

冒頭は確かこうだ。「Mからの手紙をゴミ箱に捨て、俺はデリに行く。ミルク2本買いに。持ち合わせがなくてさ、明日払うよ、かわりにこの銃を預けていくから」。単語のチョイス、並べ方、角度、どれも完璧に近い。翻訳も素晴らしかった。

やがてケイト・モランの姿が見える。女優である。だが最初はつるんとした卵のように見える。彼女は男の役を演じていて、「自分を見詰め」ている。つまり、股間にぶら下げた作り物の自分の男性器を見詰めている。頭は地面に寝そべらせて、下半身を持ち上げて丸め、自分の股間を見詰めている姿勢。ごく薄い、本当に豆電球一個分くらいの明かりが差し込み、彼女の丸まった背中だけが見える。僕は、卵だ、と思ったくらい、丸くて美しい背中だった。

言葉がポエトリーしており、情景がポエトリーしており、そして実に淡々としている。彼女はやがて立ち上がり、薄明かりの中で体をゆっくり回転させながら、台詞を淡々と口にし続ける。アレクサンドリアの街の話、街頭に立つ娼婦たちの話、中華料理店でMという女に頭を撫でられ股間を硬くする情景、女子供を解体し部屋に並べる妄想、あるいは現実の話。もう、やばい。銃を手にした彼女はゆっくりと回転を続け、イカれたテキストを淡々と読み続ける。張り詰める緊張感。言葉、情景、ぜんぶ美しい。

主人公のモノローグ。十三歳の時、彼は、純粋な存在になるために、自分の名前の上に、「真実の追究」と書き込んだ、そうだ。もうこれだけでイける。他の言葉や光景からも、透明で、冷たくて、痛々しいイメージがすっと脳に飛び込んできて、もう俺はどう足掻いても太刀打ちできないくらい詩的神経を刺激されて、ほとんど呼吸を止めてそれを観ていた。

本当にほとんど何もしない芝居なんだ。彼女は、いや、彼と言った方がいいのだろうか、彼は、淡々と回想とも妄想ともつかない言葉を口にし続け、静かに運動を続ける。はっきり言って退屈になりかねないのだが、俳優と一対一で向き合わされているような感覚があって、いや、むしろ自分が演技をさせられているような感覚があって、俺は想像力を猛然と奮い続けて彼・彼女と対峙し続けた。腕の角度、足の角度、回転の速度、そのどれもが早過ぎず遅過ぎず、思わず身を乗り出して見守ってしまう。完全に飲み込まれていた。

2作目、『演劇という芸術』。これも凄まじかった。もう六十近いだろうか、白髪で少し禿げかかった男の老人が、茶色いトイ・プードルを一匹連れて、蛍光灯に照らされた素っ気ない空間にとぼとぼ歩いて出て来る。彼は延々と、本当の演技とはどういうものか、俳優が、演出家が、そして演劇というものがいかに愚かしいか、語り続ける。何もわかっちゃいない。この犬の方がまだよくわかっている、と。

彼は言う。「見る、聴く、反応する。演技をするとき、唯一のパートナーは“今そこにいること”だけだ」「俳優が客席に向かっていってはいけない、客席にこっちに来させる」など、淡々と、伏し目がちに、演技論を話し続ける。いや、演技論というと語弊があるんだな。彼にとって演技・演劇は人生とぺったりくっついた自我の一部であるのだから、もうほとんど人生を語っているのに等しい。彼は言う、俺は、俺たちは、何もわかっていない。わかっているふりをしているだけだ。重要なのは呼吸だ。理解している振りをして、大仰な芝居をするな。

別に、演技論、演劇論を聴いてるのが刺激的なんて、そんな馬鹿なことはない。目の前に一個の現前たる肉体があって、彼が素っ気なく淡々と、飾らずに喋り続ける言葉と存在そのものに、もう引き込まれてしまう。嫌が応にも正対させられてしまう。犬は愛らしく、そして馬鹿みたいにあちこちくんくん嗅ぎ回り、彼の膝の上に足を載せ、寝転がり、骨にむしゃぶりつく。この犬が俳優というもののアレゴリーであることは言うまでもないのだが、そのグロテスクさと言ったら。「我々はこの犬より無知だ」と言っているのだから。

そんなもん俺みたいな若造が出て行って「俳優は犬より馬鹿だ」なんて声を荒げて言ったって何も心を打たないのだが、ああも老練な俳優が、皺の一つ一つに演技と演劇が刻み込まれたような俳優が、ぽつりぽつりと愚痴でもこぼすように喋るから、生々しい。場所によって言葉を切ったり、犬に話しかけたりといったある程度のミザンスはついているようだし、もしかしたらものすごく細かく計算して作られているのかもしれないが、見ている分にはその剥き出しにされた感じがもうほとんど恐怖を感じさせるほどであった。

彼はロナルドの名前が入ったサッカーシャツを着ていたが、それ自体が、かつての王者、かつての威厳をアイロニカルかつコミカルに象徴しているようで、最初は何でこんな服着てるんだろうくらいのものが、途中からグロテスクでグロテスクでたまらない。

彼は途中で、演劇にはイくことが必要だ、と言い出し、音楽をかける。よたよたと立ち上がって音楽を掛け、それにあわせてゆっくりと踊る。大儀そうに。だが、内側で何かを感じているように。この辺で俺はもう、彼の言う「俳優から客席へ」の回路ではなく、「客席を俳優の方へ」の回路に完全に取り込まれている。唸った。

終演後、小夏嬢の仲介もあってパスカル氏と少しお話させて頂いた。テキストの持つリリシズム、空間美術としてのビジュアルの鮮明さかつ的確さ、現前する肉体の芸術としての演劇、そういうものへの感性がずば抜けていい、センスがいい。ださくないんだよな。ださいのはダメなんだよな。単純な事実として。

僕は彼の演劇を評論する言葉を持たない。「シビれる」、くらいだ。理論や理屈は後からくっついてくる、ということの好例で、いろいろ説明はできるだろうが、観ている最中は言葉と肉体と空間にシビれっぱなしで、モロに影響を受けたマネっこ作品を作りかねない勢いで惚れてしまった。ああいうリリシズムを持った言葉を書いて、成功している事実が目の前にある、ということ自体が、自分の芸術にとって1つの自信になるような感覚さえあった。ちっくしょうめ。