PLAYNOTE 演劇と愛について

2009年11月13日

演劇と愛について

[演劇メモ] 2009/11/13 00:35

今、僕は濫読を続けている。来年発注されている物の中で、最も手強そうで、かつ最も〆切が早い長編戯曲のプロットと格闘しているから。僕への発注は、「愛について書け」というものである。「谷賢一が書く、愛の物語が読みたい」。

だから僕は今、濫読を続けている。澁澤龍彦を読んで愛とエロスと芸術との関係に耽溺し、モーパッサンを読んで愛の皮肉と金のドライさに苦笑を誘われ、江國香織や金原ひとみを読んで不倫不貞にばかり心を奪われて泥沼に落ち込んでいく人間像を同情つまりシンパシーを持って感じ、芥川龍之介や森鴎外の描いた皮相で悲壮な愛の形に子供のいたずらでも眺めるようないとおしさを抱いて、濫読を続けている。

僕はこう見えて几帳面でストイックな性質(タチ)だから、と言うよりはむしろ、臆病で自分不信の人間だから、何かを書く前にはひたすらに本を読む。勉強をする。調べごとをする。『プルーフ/証明』のような翻訳作品のときですら読んだし調べたし勉強したし、『ブランヴィリエ』のときだって勉強したし調べたし読んだ、『エリクシール』のときだって調べたし読んだし勉強した。だが、今回ばっかりは、読めば読むほど意味のないことに思えてくる。

DULL-COLORED POPでは愛だの恋だのを中心に据えた物語を一度も書かなかった。書けなかった、と言うより、本当に、書きたくなかったのだ。例えば僕はついさっき江國香織の『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』という本を読了したばかりで、事実、その読後感の手応えに満足し切っているのだが、それで十分だから演劇用の台本に書かないのだ。江國香織がこの短編集を書き上げるのにどれだけの時間を費やしたのか知らないが、演劇作品は大抵、作家が台本を上げるまでに数十時間から百数十時間の時間を掛けて執筆し、その後、百時間×出演人数分くらいの時間をかけた稽古が行われ、(出演者+スタッフ人数)×十二時間×劇場入り日数分くらいの時間をかけて仕込み・ゲネプロと本番を行う。これら全てを合算すると、気が遠くなるほどの手間暇をかけて行われるわけだ。そんな膨大な時間をかけて、愛だの恋だのどこにでもあるような話をやってどうすんだよ、飲み屋で打ち明け話大会でもやるか漫画喫茶で恋愛漫画を読み漁るかでもすれば手に入るようなカタルシスを、俺はわざわざ演劇でやろうとは思わない。

もう一つ、愛を演劇にするに当たって大きな問題になるのが、愛にせよ恋にせよそれらはすべてプライベートなものである、ということだ。一歩進んで論述すると、隠匿すべきものだるということだ。さらにわかりやすく言うと、間の恋だのというのは、二人っきりで演じられるものであるということだ。

世界で一番有名な愛のささやきのシーン、それはロミオとジュリエットのアレだろうけど、アレだって二人きりだ。チェーホフ作品で人知れぬ愛を打ち明けるのも大抵が二人きりのシーンだし、ヘッダ・ガブラーにせよ人形の家にせよイプセンの戯曲で重要な愛が語られるシーンは二人きりの場面だし、こないだ砂地が翻案上演していたシュニッツラーの『輪舞』に至ってはすべてが二人のシーンだし、今度新国立劇場で上演されるから楽しみにしているヴォイツェク(あるいはヴォツェック)だって二人きりのシーンだ。

二人っきりのシーンは、劇化しづらい。身も蓋もない言い方だが。書くのは簡単なのだが、あまり演劇的な広がりを持たない。難しいことを言うと、プライベートな二人+第三者の覗き見がいた方が演劇的にはスリリングであり、演出していて楽しい。それは、例えば『ハムレット』でも『じゃじゃ馬ならし』でも例を引けば簡単だろうが、もっと詰め寄って論説すると、そもそもが演劇がソーシャルな人間関係を描く、あるいは犠牲に捧げることに特化した芸術であるから、完全にプライベートなものでなく、それを誰かが覗き見ているという方がスリリングで演劇的なシーンに造形しやすいし、さらに言えばプライベートであるはずの問題がパブリックに開陳される瞬間こそ演劇的に興奮できる瞬間であるように思う。ロミオとジュリエットのバルコニー・シーンが刺激的であるのは、いつキャピュレット家の人間に発見されるかわからないからであり、ヘッダ・ガブラーのヘッダの告白が刺激的であるのは、そこがプライベートな空間でありながらソーシャルな場でもあり得る空間であるからだ。俺は、どっちも、世界の誰よりロマンティックに上演する自信がある。

さらに身も蓋もない言い方をすれば、二人っきりのシーンが増えれば増えるほど、キャスティングがしづらい。「あ、この二人が主役ね」ということになっちまうと、その他大勢をキャスティングするのにえらい苦心する。できれば愛する俳優たちに満遍なく登場頻度を割り振りたいが、無闇目暗にそういうことをやると、とりとめがなくて収集がつかない話になる。2人芝居でいいじゃん、って話になる。

だからDCPOPでは、愛が主題の物語はやってなかった。が、今回はクライアントの強い要望で、愛を描け、お前がだよ、という話である。なので俺は必死になってそいつと格闘しているのだが、愛情という問題から言って興味深いシーンが思いつけば、それは大抵二人しか必要のないシーンであるし、大勢の人間の思惑が絡み合って演劇的に興奮するシーンが思いつけば、それは大抵愛情と離れたところが主題の話になっている。困ったものだ。

だが、あえて「だが」と続ける辺りが僕の負けず嫌いでありプライドの高さなのだが、だが、この挑戦は自分にとって大きな意味を持つ気がしている。いろんな本を読んではいるし、いろんな感情をページの上に見つけてはいるし、両手でも数え切れない様々な実体験をプロット・ノートの上に持ち込んでみたりはしているが、どれも斬新だったり画期的だったり刺激的であったりしない感じがしている。もう一つ、隠し味が必要で、そこんとこに俺はまだ迷っている。なんてことを書くと僕に脚本をオファーしている人々(すべて年上で僕より経験のある人々だ)から「若造は黙ってキーボード叩いてろボケ」と内心笑われる気がして恐々としているのだが、ウイスキーをやりすぎたのでこんなことも書いてみる。

愛をきちんと真正面から描く、しかも、二人っきりのシーンだけに拠らずに、となると、かなり難しいオーダーだが、やるつもりだよ。今週中にプロットとは決着をつけてやる。ぶち殺してやる。それが、自分の新しいステップになると信じている。来年十月公開予定、ってことは、かなり入念に準備しているってことが伝わるだろう? 俺も演出家もマジだから、期待してろってんだチクショウ。

ちなみに、このエントリーの冒頭で表示した>Jonh Lennonの『Acoustic』は、僕が知る限り世界で一番ピュアなラブ・ソングが収録されたアルバムです。ああいう戯曲が書けたらいいなぁ。

頑張ろう。