PLAYNOTE 明治大学文化プロジェクト'09『ハムレット』通し稽古見学

2009年10月28日

明治大学文化プロジェクト'09『ハムレット』通し稽古見学

[演劇レビュー] 2009/10/28 19:07

4年前に自分が『マクベス』を上演して以来、毎年何かの形で関わっている文化プロジェクト。今回は通し稽古だけ観に行ってみた。

今年はハムレットを独自訳でやるという。思い切ったことをする。本番2週間前の通し稽古であるから、まぁ荒いところが目立つのは仕方がない。演出意図を探りながら、俳優の心身状態をこまめに観察しながら、観ていく。

途中からネットで原文テキストを拾ってきて、日本語と対照させながら観るようにした。翻訳は良い。寒いジョークがあったり変な語感のものがあったり、あえて既存訳から外しているがその意図が不明瞭な部分があったり、気になる部分は多いが、松岡訳以上にナチュラルな口語を取り入れていて、一聴の価値はあると思う。大変な仕事だ。

が、ここに来て翻訳の難しさに再度気がつく。先日、多田版ロミジュリでも感じたことだが、現代口語と併置されたときに、韻文や語りの力がすごく弱まる感じがする。それまで日本語を聴いていたのに、突然英語が聞こえてきたとか、そういう感じだ。おそらく独白や語りをまだ処理し切れていないがゆえに生じている問題でもあるのだろうが、今自分が手掛けているプロジェクトとも大きく関わる問題点なので、むしろ自分が勉強になったという感じ。むしろ独白や韻文や語りが強く作用するような仕掛けや演技を考えなければならない。

さて、自分はバターを塗らずに焼いたトーストほど嫌いなものはないんだが、その次に嫌いなのが、演出現場で自分の演出に横から口を出されることだ。「待ってろ!」って思う。「今にできっから!」って。あと「お前より俺のが面白いんだから黙ってろ」って。だから、今回も一切ダメ出しとかせずに逃げるように帰ってきた。そのルールに従って、今回もここには内容について何も書かないことにする。

一つだけ、やはりハムレットは難しい、ということを痛感。どういう意味か、自分なりのハムレット論を少しだけ書いておく。

ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』の丸パクりだが、ハムレットは上演される前、稽古に入る前から「解釈」せざるを得ない状態に置かれている奇妙な作品である。まず原文が何パターンも残っているから、「どの原文を採るか」という時点で、つまり翻訳以前の段階で、「解釈」が有無を言わさず混入してくる。日本での上演の場合、「翻訳」の段階でさらに解釈が加わる。かなり強く上演を左右する、演出を左右する。さらに、そのまま上演したら3時間半はかかる長大な戯曲であるから、大抵カットを入れるでしょう。どこをカットするかという上演台本策定の段階、ここでまた解釈が足される。つまり、演出家がテキストと向き合う以前に、もう大きく「解釈」されている、意味づけされているのがハムレットだ。

そして、これはたびたび誤解されていることだが、『ハムレット』はよくできた名作などではない。はっきり言って、ガタピシの構成を持った酷い失敗作である。少なくとも構成的には。ハムレット自体の人物解釈がいかようにも・いくらでもできるのも、「よく書けている」からではなく「辻褄が合わない」「書かれていない」からである。構成としても滅茶苦茶である。少なくとも綺麗なシンメトリー構造を持った『ロミオとジュリエット』や、綿密な循環構造を持っている『マクベス』なんかに比べたら、酷い出来である。これら二つの「名作」を美しく宝石で彩られた宝石箱に例えるとしたら、『ハムレット』はドブから拾ってきてまだ泥やゴミのついたままの木屑のようなものである。

が、泥を洗い落としてみると突然真珠が出て来たり、ゴミと思っていたものが黒曜石の結晶だったり、そもそも木屑と思っていた部分が丹念に掘られ整えられた木工細工だったりする。パーツとして、美しい台詞、示唆深い台詞、人間の感性や好奇心をくすぐる台詞がとても多いし、全体としての不整合さと混沌が、かえって不整合で混沌とした人間界をよく写しているように思えてくる。ちょっと泥を落としたり、見る構図を変えると、ゴミだと思っていたものが突然輝き出す。圧倒的な威力を持って人間を描いて来やがる。

実際、そうなのだ。『ハムレット』は名作ではない、と書いたが、読み手にとっては奇跡のような作品になり得るし、演出次第によっては完全に「名作」となり得る。

さらに、こう言うこともできる。『ハムレット』は、読み手の数だけ存在する。それも普通よく言う解釈上の違いといったレベルではなく、まるで別物になってしまう。そして、演出家は自分にとっての『ハムレット』を強引に提示せざるを得ない。前述の通り、あまりにも長く「解釈」と戦わなければならないし、一つとしてお手本になるような正しい読み方が存在しないのだから、本当の意味で「演出」することが要求される。つまり、テキストを解釈すること。それを、出演者・スタッフに的確に伝えること。さらに、それを視覚化・聴覚化・その他立体化すること。

ただ、そのためには、前述の「解釈」との長い戦いをまず勝ち抜いた上で、出演者・スタッフらと大いに争わなければならない。あまりにも曖昧な記述が多いテキストだから、それぞれが自分なりの『ハムレット』を持っている。イメージを持っている。演出家はここでは、全体をまとめる議長のような働きではなく、全体主義・ファシズムの独裁者のように振る舞わなければならないだろう。多くの意見を聞いて完成されるような作品ではない。それくらい、酷い完成度だし、それくらい、可能性を持っている戯曲である。

僕が「やはりハムレットは難しい」と書いたのは、そういう意味だ。俺はずっと、この作品だけはやりたくないと思っている。いつかたぶん、戦う日が来るんだろうけど、ちょっと敵として巨大過ぎる。永遠にとけないなぞなぞ、元から答えのない禅問答、何の意味もない抽象画、そういうものを相手に、必死に取っ組み合うような感じがする。きっと一瞬それは解けるし溶けるんだろうが、いやぁ、ちょっとやっぱり難しいよ、これは。観る側も自然と「さて、どう持ってきた」という気で来る。試されている感じがする、一から十まで。

その辺のことはわかった上で連中はこの台本と取っ組み合っているわけだから、一演劇人として素直に尊敬するが、勝とうと思ったら甘ったれたこと言ってられないぞ、ということだけ伝えたいもんだ。そしてもう一つ、演出家を信じることである。こういう解釈の幅がひどく広い作品であるからこそ、演出家の解釈に沿わなければならない。一人の演出家だ。翻訳者も監修も教授の意見も先輩のダメ出しも、クソの役にも立たない。ある強固な解釈があるとして、それを全員でシェアすることができたら、『ハムレット』は奇跡のような作品になるだろう。

僕は、長いことちょっと自信がないので、避けてきましたが、再来年とかにやってもいいかな、って気はした。面白いテキストであることに違いはない。

大二郎さんが普通に元気だった。怪物だよ、あの人は。もう五年、これ続けてるわけだろ。どこまで演劇好きなんだ。そこは本当に尊敬している。

コメント

投稿者:search engine optimization vancouver (2012年01月13日 08:47)

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