PLAYNOTE 文体

2009年06月17日

文体

[公演活動] 2009/06/17 03:50

次回公演『マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人』、難産です。文体を発見する。

僕は自分で言うのも何だが、かなり「文体」というものにこだわっている。

自分はバカなのでスーザン・ソンタグ女史が著した恐らく現代最高の芸術論の一つである『反解釈 (ちくま学芸文庫)』にほとんど同調する。それは、芸術とは、内容よりもその様式・スタイルによって評価されるべきだ、ということ。

作家である以上、コンテンツがすっからかんであるというわけはないが、それをどう表現するかということにこそ、アーティストとしての自意識があり個性がある。

企画公演『息をひそめて』では、現代口語演劇っぽい、ユルい日本語、ダラけた日本語をなるべくやろうとしていた。『藪の中』では文語的でありつつ耳で処理できるものを、『アムカ』では砕けた日本語と古い海外戯曲にある隠喩とレトリックに満ちた独白をミックスすることを、それぞれ心がけたつもりだ。『ベツレヘム精神病院』では、実際の精神病患者の書いた手記をヒントに書き、『セシウムベリー・ジャム』ではやはり砕けた会話と雄弁な書き言葉の間を行ったり来たりすることに興奮を覚えた。

『小部屋の中のマリー』では、冒頭ではおとぎ話で使われるような「です、ます」口調や、夢のシーンでは童話にありがちなシンプルな単語が引き出すぞっとするイメージを出せないか、と考えていたが、全体を通しては自分の書きやすい演劇語だった。現代口語演劇ほど散文にせず、新劇のような口数の多さもなく、普通。

『JANIS』が一番やってやった感がある。かなり意図的に翻訳文体を織り交ぜて、アメリカ人の身体を演じることへの違和感の垣根をどうにか消そうと頑張った。結果、固いとか自然でないとか言われたこともあったが、欧米人の自己主張の強さ、前に出る言葉というのは、自然な日本語、砕けた日本語では表現できない。自分が欧米戯曲に親しみがあるためか、近作ながらかなり気に入っている。

で、『マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人』だが、とりあえず近世ヨーロッパ演劇の文体模写から初めてみた。と言ってもラシーヌを少し読み返し、モリエールは参考にならなかったので捨て、一番親しみのあるシェイクスピアの文体模写に落ち着いたのだが、今のところあんまり面白くない。以前、『ロミオとジュリエット』を柏で上演したとき、かなりの分量の台詞を自分ででっち上げた台詞で置き換えたことがあった。一番最初のロミオとベンヴォーリオの会話や、舞踏会に赴くマキューシオたちの台詞なんかほぼオリジナルだったが、観に来た人は誰も文体模写と気づかなかったようだ。いや、気づいてた人もいたんだろうけど。

だから文体模写で全編オリジナルとかいけるんじゃね? と思い、書き始めてみたんだが、何か違う。何か恥ずかしい感じになってしまう。かと言って現代日本の散文口語とも違うし、『JANIS』でやったような欧米口語を皮肉ったようなやり方も違う気がしている。以前、次回出演者と話したとき、「文体が見つかればすぐ完成するだろう」ってなことを言って強がったが、マジで文体をどうするかが今のところ一番の難敵である。

たぶん、文体模写は、他の中に紛れ込ませたり、ジョークとしてやる分には面白いのだけれど、言霊と言うかトゥルー・ワードと言うか、とにかく情念を刻む言葉としてはあんまり有効ではないらしい。雄弁な戯曲にしたい、と思っているが、そのためには、今の時代、平成、何が雄弁かということをじっくり考えなければならないんだろう。自分は古典派と言っていい人間だと思うが、換骨奪胎せねばならんし、見習うべきは雄弁さであって、文体ではないんだろう。

とか書いてるけどどれも暗中模索ね。深夜四時に書いている時点で、このエントリーが、ただ自分の考えを整理して、自信を持って前へ進むためのジャンピング・ボードであることはわかってもらえると思う。せんべい食いたい。

コメント

投稿者:なお (2009年06月17日 14:10)

わかった!!!
せんべい送ったげる!!!