PLAYNOTE 木下順二訳『リチャード三世』

2009年06月13日

木下順二訳『リチャード三世』

[読書] 2009/06/13 22:07

DULL-COLORED POP次回公演『マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人』は、大きく現代口語演劇へハンドルを切りつつあるこのご時世に、あえて逆方向にどれだけハンドルを切れるかやってみる、言葉の芸術としての演劇の可能性をへっぽこ三文文士がどこまで戦えるか頑張ってみる、みたいな挑戦の場でもあるので、シェイクスピアやラシーヌやギリシャ悲劇を読むようにしている。

で、『リチャード三世』を再読したので、感想を書き散らしておく。

まず、あんまり面白くなかった。

え? え? と思ったけど、読んでも読んでもあんまり面白くない。最後まで読んで、まぁそこそこ感じ入るところはあるにせよ、シェイクスピアこんなもんだっけなぁって感じ。

だが、最後の解説読んでて思い出したんだが、これってシェイクスピアの最初期の戯曲なんだよね。道理で登場人物は無駄に多いし、筋は結構強引だし、何よりシェイクスピア定番のダブル・プロットがない上に、リチャード三世を置いて他には魅力的なキャラクターが少なく、絡まりある劇的イメージとかプロットとかいう醍醐味が実に薄い感想を受けた。

リチャード三世はさすがに魅力的だ。悪すぎて魅力的。悪びれない、っつーよりも、当然のように裏切りまくっていて、倫理とか道徳とかじゃなくて単純にやられた! って思う。昔からヒールはカッコいいもんなんだ。

冷静に考えると、シェイクスピアの時代=エリザベス王朝時代、その敵であったはずのリチャード三世を、割と好意的な目線から書いてるってのは面白いな。

リチャード三世の人物造形としては、「力強く悪い」ってとこが素直に言って一番面白い。薄くても固ければいい、みたいな。物語後半で、お袋に向かって自分をほったらかしてお呼ばれの朝食を食いに出かけたことを批難する台詞が一行だけあるが、それ以外には「どうしてリチャードはこんなに悪いのか」という説明が全然ない。

あるとすれば、それはもう台詞で言う必要がないもの、要は外見である。びっこで背虫の小男・リチャード。好男子である親族に囲まれてルサンチマンの固まりである。ひねくれて当たり前。

リチャードは何故王権を欲したか? 俺は、ぶっちゃけ、あんまり王権目当てでこんな奸計の嵐を吹き荒らしたわけではないと思う。単純にリチャードは欲求不満で苛々していた。不満と怒りと劣等感で、体がぱんぱんに膨れ上がっていた。有名な冒頭の台詞、「何か平和になっちゃって、みんなちゃらちゃらしやがって、でも俺みたいなブサイクはやることねーし、だったら徹底的に悪いことしてやる」(超意訳)が本心であるような気がする。

見返してやりたかったとも、見下してやりたかったとも違うと感じる。これもまた有名なラストの台詞、
「馬くれ、馬! したら王国半分やっから!」
を、どう解釈するかだけれど、俺は本当に王国とかどうでもよかったんだろうと思う。負の感情で膨れ上がったリチャードは、それを排泄できれば何でもよかったんではないか。

しかし、ここから少し真面目になるが、リチャードは王族であった。人は自分の生育環境の呪縛から逃れられない。自分はどこから来てどこへ行くのか、とか、自分は何者か、とか、陳腐で笑いたくなるが、それだけありふれた悩みであるということだ。リチャードは仮にも王族である以上、その体に詰まった悪意とルサンチマンを、例えばスポーツにぶつけたり、例えば学問にぶつけたりなんてことはできるはずがないのである。貴族に生まれたものは貴族として立ち向かうべきものがあり、乞食に生まれたものは乞食として立ち向かうべきものがある。

ここにマクベスやハムレットとの多いな相違点がある。マクベスは、中身は最高、生まれは普通。であるからマクベスは、最後までコンプレックスに苛まれた。王の血統というものを最後まで恐れ、最後まで飢え、渇望した。ハムレットは生まれは最高、中身は半端物。だからこそ、自らに相応しい運命を求めて、独り相撲みたいな真似を延々と繰り返した。

言い換えれば、リチャードは、王としての栄誉や賞賛を受けたかったのではなく、自分に相応しい生き方を求めただけとも言えるだろう。びっこで背虫でブ男で、そんな俺がやることって、ぶっ壊すことだろう、と。それは無意識の作用であり、彼が意識していたことではないかもしれないが、僕はそう確信している。欲得で動いていたのなら、最後まで戦場に留まり、馬くれ馬とか言って戦い続ける意味はない。逃げればいいし、それは多分簡単だ。だが最後までリチャードは戦場に残った、一人でもいい、この鼻持ちならない世界の構成要素を、一つでも多くぶち壊し切り刻み叩き殺す。

僕が演出するなら、だから、最後のリチャードは、アドレナリン・ハイのまま、ある種幸福な顔をして死んでいくのだろうと思う。安いヒロイズムに落ちかねないが、そんな気がする。

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もう一点、覚え書き程度にメモ。解説で木下順二先生が、

「当時のグローブ座の客はバカだから文学的な台詞なんてわかんねーはずなのに、そこそこ楽しんでいたのは、リズムとしての台詞の価値があったんじゃね?」

「それに劇場が屋外で太陽光しかねーしセットとかねーし、屋外で大声じゃなきゃ台詞聞こえないから、だからこんなに台詞劇が流行ったんじゃね?」

「単語レベルでわかんなくても、クラスタ(房)レベルで意味わかったりすんじゃね?」

という最高に鋭い指摘をしていた。これは全部Trueな気が浅学かつ浅薄な俺にはしてしまうのだが、裏を返すと、

「それなりに教育を受けている我々は、物語として”わかる”演劇を欲し、聴くものとしての演劇の価値が堕した」

「美術・衣裳・照明・映像などの視覚効果が発達し、ささやき声でもきちんと聞こえる現代の劇場では、台詞術も変わってくる」

という推察を提出できると思う。もちろん推察な。

「単語レベルでわかんなくても、クラスタ(房)レベルで意味わかったりすんじゃね?」

ってのは現代でも同じだろうけれど。

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友達に喋りでもするかのようにすごい適当に書いたので、いかにPLAYNOTEがアテにならないデマを書き散らかしているクソブログかということがわかってもらえたように思います。『シェイクスピア 批評』とか『マクベス 解釈』とかいうあほワードで検索してうちに飛んでくる学生たちは、↑みたいな酒の肴レベルの書き散らしをレポートや論文に使うような暴挙を是非とも避けて下さい。

もっともらしいこと書いてるようで、論拠なんかねぇ。そういう意味では自分も演劇学の面汚しである。もうちょっとちゃんと勉強したい。