PLAYNOTE 映画版『ドラえもん のび太と鉄人兵団』

2009年05月15日

映画版『ドラえもん のび太と鉄人兵団』

[映画・美術など] 2009/05/15 13:32

前述の通り、風邪で死んでいるので、横になりながらDVDなんか観てる。しかもなるたけライトな奴を。でも、当然ドラえもんの映画なので、またボロボロ号泣してしまった。

結構ひねりがあるドラえもん映画のストーリーにしては珍しく、「宇宙の果てからロボットの大群が攻めてきて、地球を守る」という単純なもの。

リルルという少女が序盤から出てきて思わせぶりな言動をたくさんして、のび太とドラはリルルの作った基地を破壊したりする。「やったー、これで地球は救われるんだ!」みたいなことをじゃんじゃん言っていたので、「あぁ、これは、実はリルルはいい奴で、破壊してしまった基地は実は宇宙人の侵略から地球を守るための何かだったんだろうな」とか裏を勘ぐっていたら、どストレートに侵略用の基地だった。これは、俺が裏読みをし過ぎているって言うより、ちょっと演出がおかしい気がする。あの思わせぶりな言葉の切り方とか、暗雲立ち込める空気感とか。

結構ストーリーはリニアなのだ。リルルが侵略しようとしていて、でもドラやのび太やしずかはリルルのことを憎み切れず、見逃してやったり傷を治してやったりする。最終的にリルルが寝返って、ドラたちの手助けをし、地球には平和が戻る。単純なのだ。

だが、単純だから泣けるのだ。こないだ『THE 有頂天ホテル』を観てボロボロ泣いて、そのちょっと前には『ファインディング・ニモ』を観てボロボロ泣いて、で、今度は『ドラえもん』でボロ泣きだよ。

演劇でなんでこういう作風が成立しないのかな、と思ったんだが、やっぱり生身の人間がやると、この単純ゆえの、純粋ゆえの感動ってのは作りづらいのだろう。アニメだから俺も泣きながら観ているが、舞台で「地球を救おう!」とか、「人間ってときどき、理屈に合わないことをするものよ」とか「天使」とか言われたら、「死ね死ね死ね、演劇界から出て行け」とか思うに決まってる。ドラやのび太やスネ夫やジャイ公やしずっ子が言うから感動できる、生身の人間が言うと鼻白む、陳腐さに殺意すら沸く。この差はひとえに、演劇が持つ絶対的なリアリティ、身体のプレゼンスによる否定できない現前感によるものだろう。現前する身体を使って空想やファンタジーを描くには、何か一つ階段か魔法かトリックかが必要になる。ドラえもんで感動したからと言って、似たようなものをそのまま舞台上でやると、ちょっと痛々しい何かが生まれる。有名な某劇団とか、そうですね。

ドラえもんに話を戻すが、結局何つーか、タイムマシンで解決してる点は思い返してみて残念に感じる。最後の最後で、のび太たちは迫り来る鉄人兵団たちに向かって銃を浴びせ続けていただけだった。相手がロボットだから観れるが、やってることはアサルトライフルで敵兵の頭を血みどろに吹っ飛ばす歩兵同士の戦争の絵と変わらない。もちろんあんなシチュエーションで、全面戦争が起きてる状態で、話し合いや説得で戦いが終わるなんてあり得ない。漫画である。だが、ドラえもんは漫画でよいのではないか。リルルが自らの命を捨ててああいうことをやった、ということ自体があまりに悲劇的で素直に喜べないし、別の道があったんじゃないかと思うし、リルルの行いによってわけもわからず消滅させられた何十万というロボット兵のことを思うと同情もする。漫画らしく解決してくれればよかったな。生温い説得や会話や発見によって。現実世界では絶対無理だからこそ、そういうものの貴重さをドラえもんは描いていいんだと思うんだ。

こういうことをずらずら書くのは、この映画が面白かったからです。たかがドラえもん、されどドラえもん。

そうそう

本筋と関係ねーけど、のび太とドラとスネとジャイが無人のスーパーで「何でも買える!」「ぜんぶタダだ!」とか言って大騒ぎし、大喜びし、合法的万引きみてーなことを喜々としてやってるシーンを観て、泣いた。ああ、子どもってこうだよなぁ、自分もこういう喜び、あったなぁ、って。朝早く出かけて誰もいないプールを独り占めしたときとか、友達のおばあちゃんが駄菓子屋さんやっててガチャポンやり直しし放題だったときとか、友達んちで当時まだ珍しかったスーファミのソフトが全部揃ってて遊び放題だったときとか、世界は俺のものみたいな気持ちになって、喜んだなぁ、って。ただただ喜んだなぁ、って。そういう景色をもう一度観てみたい。