PLAYNOTE 演劇集団砂地『こがれ ~鶴屋南北「桜姫東文章」より~』

2009年05月10日

演劇集団砂地『こがれ ~鶴屋南北「桜姫東文章」より~』

[演劇レビュー] 2009/05/10 16:20

畏怖と異才に引っかけて、あえて「畏才」という大層な単語で形容したい、注目の演出家・船岩裕太率いる演劇集団砂地の新作本公演。神楽坂die prazteにて。

鶴屋南北作の『桜姫東文章』を原案に、船岩氏自らが戯曲を起こしたオリジナル戯曲。翻案ってレベルを超えてるから、クレジットも「作・演出」。

砂地は昨年末の『いつも白い寝室は嘆くか』(レッシング作『ミス・サラ・サンプソン』が原案)を観て衝撃を受け、以来追っかけているのだが、今回の『こがれ』でも鋭利でスピーディー、スタイリッシュな演出は健在。スタイリッシュとか言うと船岩氏は怒るかもしれないが、肉体や精神へのサディズムに比して、空間が毎回えらい美しいのは一種の個性だろう。

PTSDで離人症っぽいガチンコメンヘラーの主人公の女のもとに、ライターと思しき男が訪れ、彼女が犯したバラバラ殺人事件についてのインタビューを行ううちに、フィードバックするように彼女の人生に深く関わった二人の男が現れる。現在と過去が去来する構成は決して珍しいものとは言えないが、その間の飛び方・見せ方が上手い。ざくざくと一足飛びに、かつ不親切なほどのスピード感を伴って今に昔に話題が飛び、その間もすべての人物がそこに立会い、それぞれの回想を時に眺め、立ち入り、接触する。

記憶とはそのままでは混沌として一貫性のないただの情報の集合だが、人間が他人にそれを語る際に、それはうまいこと物語化され、人間の精神は整理される。混乱した記憶が、まずは混乱した印象として提示され、やがて観客の目にもインタビュワーの目にも理解しうる物語に紡ぎ上げられていく。内容と手法が深くマッチしており、演出家としての癖で選んでいる節もあるにはせよ、適切かつ効果的な演出である。

俳優の発散する熱量が凄まじい。ちんたら立ち止まって心理的な間や躊躇いを感じさせたりすることをせずに先へ先へと進む暴力的なスピード感が、二つ観ただけだが砂地の魅力の一つであると思う。船岩氏がチェーホフとか演出したらどーなんだろ、っていうアンチテーゼみたいなものも浮かばないでもないが、大抵の場合かったるいだけの心理的な間を削り、自然主義から離れてでも魂のリアリズムに近づこうとでもしているような熱量の高い演技が僕は好きだ。素人に毛が生えたようなだらしのない俳優とは異なる、確実に鍛え上げられた俳優の身体を、鷹のように鋭い目を持った演出家が、貪り食っているような印象を受ける。

脚本内容は、言うなれば素晴らしき枝葉末節。演出的にもそうなのだが、ディテールをすくいとる見事さには確かな観察眼を感じさせる。本人は「作家ではない」と言っているようだが、例えば堕胎にまつわる男女の会話だとか、例えば捧げ物として石を集める男と女の会話とか、下手糞が書くと薄っぺらくなりそうな状況設定を肉をえぐるようなリアリティを持って描いている。会話のかみ合わなさ加減が絶妙で、インテリジェンスと共に活発さを備える作者本人の人柄を覗き見るよう。知力だけの作家には、こういうかみ合わなさのリアリティは書けない。

反面、これが今回の最大の難点であったように思うが、枝葉の瑞々しさに比べて、幹とも言える物語の太さに欠ける印象がある。どういうスタイルで記述された台本だか窺い知る機会に恵まれておらず、想像で語るしかないのだが、それほど多いとは言えないであろうト書きに対して、俳優に課す行動・ミザンスの明確さ・力強さでぐいぐいと「台詞」を「行動」に移し変え、緊迫感のあるドラマに仕立てている点は見事だが、基本的には会話劇である戯曲だ。例えば以前船岩氏との間で話題に上った戯曲、三島由紀夫の『サド公爵夫人』なんてのは、まぁスタイルとしては会話劇でしかないのだが、会話の真ん中に物語や運命のうねりがあって、それがぐいぐいと人物や展開を牽引していき、最期にはあるまとまった質量を持った感慨が胸に詰まって、幕を下ろす。今回の作品は、題材的に、破綻した、あるいは断片化されたエピソードが増えるのは確かに間違いないのだろうだが、マテリアルとしてもモチーフとしても素晴らしい輝きを持っている、例えば開かない左手、水面を漂う桜の花びら、地下水脈、そして記憶などのイメージが、断片同士を繋ぎ合わせることができたなら(断っておくが凄まじく高度な次元での脚本術の話である)、大きなドラマになったのではないだろうか。

おそらく僕が作劇術の中心に、アリストテレスの戯曲論と、スタニスラフスキー的なテキスト読解術(この二つを合わせると大抵の骨太なドラマは解説できる)を据えているがゆえの違和感であって、そればかりがドラマツルギーのすべてではないのだろう。そういうことをわかりつつ、何故そんなことを書くのかと言えば、自分は砂地にもっとキャッチーであって欲しいと思っているからだろう。誤解を恐れずに言えば、着飾って化粧を塗りたくったおばさま方や、ミーハーで浅い演劇ファンに観に来て欲しいと思っている。そしてそういう観客に、演劇がかくも暴力的な美しさを備え得るということを示して欲しいと思っている。ざまーみろ、バーカ、みたいなことをやって欲しいと思っている。そんなに数は観てないが、tptなんかにはそういうことがやれていたし、ちょっと前の蜷川幸雄なんかもそういうことをやっていた。砂地の演劇には、現代の若い連中が忘れてしまったようなひりひりする痛さと、練成された俳優の身体という要素が備わっている。だからこそ、物語内容はもっとキャッチーであって欲しい。キャッチーであればあるほど、方法論は際立つだろう。砂地で上演されるテネシー・ウィリアムズとかギリシャ悲劇とかに、今にもザマスとか言い出しそうなおばさま方が集まって、ぎゃふんと言わされて帰る、でも胸がいっぱいで包丁もろくに持てないわ、どうしたのかしらあたし、あなたー! 私ちょっとおかしくなっちゃったみたい! そういう未来を一観客として勝手に夢見ているのである。

さんざん勝手適当なことを書き殴ったが、触発される集団であり、作家・演出家である。自称演劇ファンを自認して、砂地を未見の諸兄は、ちょっともったいないよ、エコじゃないよ。エコとかクソくらえだけど、砂地を観ないのはもったいないので、次回、必ずご覧頂きたい。