PLAYNOTE 柏市民劇場CoTiK『源氏物語』終演

2009年02月18日

柏市民劇場CoTiK『源氏物語』終演

[公演活動] 2009/02/18 03:34

市民劇@柏→地域文化交流、というCoTiKの第二回公演が終了した。雑感を書き留めておく。

地域交流について

すごくできた。

コミュニケーション能力の開発について

少しは役に立ったと思う。

戯曲について

『源氏』を演劇化するという無理難題に苦しめ続けられた数ヶ月であったが、予想を超える成功だったと感じている。

前にも何度か書いたが、プロットを数本潰している。その中で、「わかりやすさ・とっつきやすさ・市民劇としての面白さ」などの点と、「原作への忠実さ・本物の演劇としての面白さ・二次創作とは言え文学作品としてのクオリティ」などの点のバランスを探り続けたことが功を奏したように思う。都内から来た目の肥えた人や、普段DULL-COLORED POPを見続けてくれている人からも好評がもらえているのだから、悪い出来ではない。

群読で始める、という構成は、市民劇としてのスケールの大きさと、一致団結っぷりを誇示する狙いの他、「作者はきちんと原文わかった上で演劇化のためにぶっ壊してるんですよー」という言わば予防線を張るための意味もあった。いい導入だったと思うが、稽古に人が集まらないために、思った以上に演出が大変であった。

二帖からは光の君のお話になるわけだが、原作にもある『雨夜の品定め』というエピソードを下敷きに、とりあえず五人分、女の話を回想として紹介する、という格好。これもいいバランスであったように思う。

その後はエピソードを取捨選択するのに骨が折れたし、『源氏』に馴染む文体を探す、という難題を、何とかこなした格好だが、やっぱり飛躍があるのは否めない。俳句をHIP HOPにしてみました、とか、五言絶句を元にしたピアノバラードです、くらいの飛躍はやっぱりあるし、『源氏』を知っていれば知っているほど違和感はあるだろう、と思った。が、意外にも、『源氏』好きの人からも反感はなかったのが驚き。自分が一番窮屈になっていたのかもしれない。

ハッピーエンドであった。明石ぶっとばす果断。まぁそもそも須磨・明石っていうエピソード知らない人向けの劇化であるとは思う。などと偉そうなことを書きつつも、自分もまだまだ源氏素人であるのは否めないわけであり、今後、文学を志す人間の端くれとして、『源氏物語』という怪物とは付き合い続けていきたい。

CoTiKについて、というか、市民劇について

まとまった論を提出するほどの時間がないからざっくり書くが、本当に難しいのだな、ということに気づいた二年目であった。

何が難しい、と言えば、CoTiKの大命題である「学校・職場・年齢を超えたコミュニケーション」である。集まっちゃえばコミュニケーションはやれる。演劇は、本当にこういうことに向いている。いくらでも効能を上げられると思う。

が、人が集まらないのだ。稽古に。これには参った。「仕事が押していて…」しょうがない。日本人なのだから、しょうがないのだ。「仕事で…」と言えば大抵何でも許されてしまう世の中だが、それは裏を返せば未だに「仕事」というものを仰ぎ見る精神が、日本人に浸透しきっているからだと思う。

昔のように「夜のため人のため、立派な仕事を…」というスタンスとは違うにせよ、やっぱり仕事>プライベートである。加えてこの不況である。不況、と言うよりは、「不況らしいよ」という不安感、なのだが、同じことだ。毎日残業するのが当然みたいなこの社会で、自分の時間がほとんど持てないこの社会で、楽しく演劇をやるってのは、本当に難しい。

市民劇の最大の敵は、まずこの生活のゆとりのなさにあると思う。経済的なゆとり、ではない。時間的なそれだ。演劇がやれない、というだけでなく、恐らくそういうせわしなさに魂を絡め取られている人々は、スポーツにせよお料理にせよ音楽にせよ演劇にせよ、十全には楽しめない。未だに世界三位(くらいだっけ、まだ?)の経済大国である割に、本当にせわしない民族だ。

行政サービスのかゆいところに手が届かない感も問題だが、それについて各論的に論じているともはや夜が明けてしまうので、やらない。ただ、この経験は今後の演劇・文化活動に大きな問題意識を投げかける格好になった。「飢えた子どもの前で文学に何ができるか?」サルトルたんの言葉だが、「毎日九時五時、残業当然の日本人の前で、演劇に何ができるか?」とでも言おうか。高校生は元気いっぱい参加していたが、彼ら・彼女らだって五・六年も経てば同様である。うーむ。