PLAYNOTE どうすれば読む力は育つのか? (わからないことを考えるシリーズ)

2009年02月07日

どうすれば読む力は育つのか? (わからないことを考えるシリーズ)

[トピックス] 2009/02/07 23:32

こんなエントリーを読んだ。「レポートコピペ問題の問題 - Ohnoblog 2」。読書感想文やレポートをコピペで済ます学生がすげー増えているという話。筆者は大学の教授さん? で、ご自身が持っている生徒の実例を出しながら、最終的には「読む力自体が要求されない社会」というものに原因の根幹を求める、巨視的な考察をわかりやすくつづっている。いいエントリー。

ちょうどこないだ、某現場の打ち上げで、「どうやったら戯曲の読解力は育てられるのか?」なんて話題でせりさんや中屋敷くんと議論が沸いたことがあった。僕と中屋敷くんの結論は「無理」。でも、ちょっと仕事の気休めに、考えてみようと思う。「戯曲」ではなく「文章」と広く捉えて。駄文駄文つらつら。

読解力はテクニック

何か誤解してる人も多そうだけど、読解力は基本的にはテクニックだと思っている。テクニカルに読むということ、それはすなわち、表現上の技巧が使われていることにまず気がつく能力の養成だ。

これも誤解が多そうだが、上手い人が書いた文章ほど読解がたやすい。それらは使われている語彙や扱われている概念自体は複雑だったり高級だったりしても、狙いが的確で練られている。素人がだらだら書いた文章より、断然読みやすい。表現上の手法や技巧・技法も、意識的・無意識的であるは別にして、分析してみると的確である場合が多い。

そこに表現上の手法や技巧があるということは、そこに作者の意図があるということ。このシンプルな構図をまず理解しなくちゃならない。で、表現技法なんてどんだけある? と言えば、そう数は多くない。文の中で使われる表現技法、例えば、倒置、反復、疑問、体言止め、直喩・隠喩、改行・改段落、傍点、引用とか言ったものならあっという間に見つかるし、文章構造についての技巧もそう多くはない。現代国語の文章は、ほぼすべてが段落を意味段落として扱っているし、章立てがある場合もあるが、どこに結論があって、どこが結論を支える論証・例示の部分であるかをきちんとツリー構造にでも書き出せばいくらでもシンプルに分析ができる。まずは、こういう文章作法の一般常識を身につけちまうことが、読解力ゲットの最短ルートだ。

何故か? 前述の通り、技巧が使われている部分には、強調しようという作者の意図がある。……というこの文自体がいい例示であって、冒頭がまず疑問文で始まっている。ここがまず強調。「こっから大事なことが始まるよー」という前触れのようなもの。「技巧が使われている部分には、強調しようという作者の意図がある」という文章自体が二段落前に書いたほぼ同内容のセンテンスの反復表現であり、「技巧」という表現上のタームと「意図」という内容に関する指示語が並べてあるとこは、ちょっと無理があるが対句的な表現とも言える。これも強調だね。

さて、先の見出し「読解力はテクニック」から今ここまで書いたことの中で最も大事なことは何か? 力点はどこにあるのか? 答えは簡単、「読解力はテクニック」である。他の段落はそれを支えるためのパーツに過ぎない。

戯曲や小説だってある程度はテクニカルに読める

評論文以外のジャンル、戯曲や小説だって、ある程度はテクニカルに読める。戯曲や小説だって、きちんと作者がいて、狙いがあって書かれているから。技巧が使われている部分には、必ず意図がある、という原則に立てば、そこから読み解いていくことが可能だ。

と言っても評論文よりやりづらいのは確かだろう。構造がしっかりしているちょっと古いタイプの小説なんかはこの方法でかなり読みやすいだろうと思う。逆に、最近の私小説めいてきた純文学なんかは、読みづらいんじゃないかな。テーマや主眼なんかより、空気感だったりムードだったりの方が面白がられる昨今ではある。つっても、作者が選んだ文体を「なぜ?」と思ってみたり、情景描写なんかを隠喩としてとらえたり、ということをきちんとやっていけば、ちんぷんかんぷんということはないんじゃないかな。もう完全に憶測だけどね、この辺。

技巧がそんなに偉いのか? 偉いんです。技巧ってのは、エライ人が「この表現は素晴らしい」と決めたから知られているんじゃなくて、今までの文学の歴史の中で、よくわからんが人の心を打ったものをあれこれ集めてみたときに、共通して発見された特徴であり、癖である。人間は物語する生き物だ、というのが僕の持論だけど(ありふれたものなので持論というほどのものでもない)、人間に備わった物語本能みたいなものに訴えかける何かがあるのだろう(物語本能、というと先天的な印象を受けるが、それがどこまで先天的で、どこまで後天的なのかは、もはや哲学の領域になるだろうから触れない。俺の適当インプレッションで言えば、大半は後天的なもの、社会性に由来するものだろうと思うけれど)

相手の気持ちになって読む

相手の気持ちになって読む、なんてことを義務教育の国語教育ではよく言われたもんだが、これは、二つの意味で正しい。一つは、登場人物の気持ちになって読む。もう一つは、作者の気持ちになって読む。

前者、「登場人物の気持ちになって読む能力」の育成は、えらい難しいと思う。だってこれって国語力というよりむしろ想像力のものだもの。こいつの育成、これは率直に言って「無理」だろう。もう、国語に限定せず教育というものを、いやむしろ、教育以前の養育とか育児のレベルにまで引き返して考えなきゃならない問題が大いにあるからだ。百マス計算やりまくって育った子供と絵本を読み聞かされまくって育った子供、どちらがより想像力を持つか? 答えは、「わかんない」だ。純粋な比較実験は無理だし、統計的なデータを自分は知らない。つまり、わからない。

後者、「作者の気持ちになって読む」は、前述の技巧=意図として読むことでかなり助けられるし、年を食ってからでも習得が可能だ。

特に、戯曲の読解なんて、すっごい技巧的にやれると思うんだよね。戯曲って大抵、小説なんかより構成がしっかりしていて、内容がソリッドで、かつ登場人物の役割が明確である場合が多い。昔から言うところの起承転結や序破急、フライタークの五部三点説(だっけ?)とかがぴたり当てはまる場合も多いし、アリストテレスの演劇論なんか未だに現役っしょ。欧米じゃ「戯曲の書き方」みたいな本がえらいたくさん出版されているようだが、これだって一冊二冊読んでみた感じ、超参考になる。

まずはそういう、技巧的にやれること、努力でやれることをつぶすべきだと思うんだ。マジで読解力つけたいなら。まぁ、大抵の人は「つけたーい☆」と言いながらそれほどマジじゃないから、今さら勉強しようとは思わないだろうけれど、「とにかくたくさん数を読む」とかよりは近道だと思う。

書いてみるのも手

技巧=意図として分析する、というステップをこえたときに有効じゃないかなぁと思うのは、実は僕は、「自分で書いてみる」だと思っている。英語力に置き換えたら、文法を学んでリーディングをやったら、英作文やってみる、みたいな。料理に置き換えたら、レシピを読んでイロハを習ったら、さぁ包丁持ってみろ、という。

自分で書くと、「どう書けばいい?」という意識が鋭敏になって、既述である「作者の気持ちになって読む能力」がすごい身につくと思う。国語教育限定だったら、俺もやらされた覚えがあるが、「~~だろうか? いや、~~ではない」を使って文章を書け、みたいなトレーニングって、思ったより有効だと今の俺は思うよ。当時の僕は国語力なんかイラネと思ってたから、どうでもよかったけれど。

人物の心理を読む

さぁ、ここが難しい。人物の心理を読む。作者の意図、文章全体の論点を読み取るよりも、はるかに難しいだろう。さっき「そこは想像力だから今さら教育は無理」と書いたけど、本当にその通りだと思う。

人生経験を積めば読み取れるようになるか? いくらシビアな経験をしても、想像力がなけりゃその事例を演繹的に別の話題に結びつけるなんてのは難しいだろう。とにかくたくさん読めば読み取れるようになるか? 間違いないと思うが、何百冊読めばいいって話になる。

戯曲で言えば、独白・傍白の類があればそれはもちろん、ト書き、改行、漢字仮名遣いですらヒントになるだろうけど、技巧的に読む限界はその辺だよなぁ。例えばハムレットの人物像を読み解こうと思って、ハムレットその人の気持ちになって読むこと自体が難しかったら、ハムレットを囲む人たちの視点から見てみるなんてのもヒントになるはずだが、これだって結局のところ「誰かの気持ちになって読む」という意味で同じ。

人物を行動主義的に読み解く、というのは結構使えると思う。例えばハムレットなら、まずどういう状態にいて、何が起きてどういう行動に出たか、その後どう行動したか、と、ひたすら内面なんか無視しまくって起こしたアクションそのものに注目する。行動こそ性格である、と言ったのは誰だったか、忘れたけれど、そんな言葉があるくらい、行動から読み取れるものは多い。もやもやしてたハムレットが急に復讐に奮い立つ。だが剣は手に取らず迷い続けている。これ自体が一つの性格を代弁していると言えるよね。でも、できるのはここまで。ここから先は、想像力だ。

論理力

中屋敷くんが「要はロジック」と言い、その場にいた某清水さんが「マジでそう」と言い、俺も「そりゃそうだ」と言ったように、論理力は重要だと思う。でも、できることってここまでじゃないかな。

思い込みの力

あと大事なのは、暴論だが、思い込み力ってかなり重要だよね。よく俳優や演出家仲間とテキストの内容について討論していても、論理でいなせるのは基本ラインまでで、そこからは個人の資質、背景、性格が色濃く出てくる。それでいいんだから、そのてめーの勝手な思い込みを煮詰めて煮詰めて煮詰めまくって、人をうならせる濃度にまで濃くしていく力。それって思い込み、突っ走っちゃう力、だと思う。

まとめ

社会に出た後で「読解力」と言った場合の本当の意味は、上でつらつら投げやりに書いたような技巧=意図論で読める領域の先にあるものを読み取る力、つまり、想像力を要求されるテリトリーのものだろう。だが、大抵の場合「読解力がないんです」という人は、漢字もろくすっぽ読めなかったり、ボキャブラリーが貧困だったり、大学受験レベルの文章技巧すらまともに読み取れなかったりする。まず、そこを叩くのが先決かと。つまんねーけど。

おまけ

さっきテレビに出てたから思い出したってだけだが、明大教授の斎藤孝が出してベストセラーになってた「三色ボールペンで読む日本語」(だっけ?)の方法論はトレーニングとしてはかなり有効。確か、すごい曖昧にしか覚えてないけど、文章を読んで客観的に重要と言えるところや論旨と言えるところに赤線、自分が面白いと思ったり興味を感じたところに青線、あともう一色何かに使ってたんだが忘れた、という分類だけど、これはロジカル読解の能力を鍛えると同時に、オイお前てめぇだよ貴様、そこでぼーっと口開けて読んでるあなたはどこが面白いと思ってんのさ? という疑問を投げかける。

あと、英語の文章を読むのは実にいい。英語はご存じの通り驚異的にロジカルに書かれた文章であり、パラグラフごとに論点や要旨がある場合がほとんどで、それも大抵の場合、段落の頭かケツにある。そうじゃない文章ももちろんあるが、少ない。自分がイギリスの大学で準備コース中に詰め込まれたレポートの執筆に関する授業では、そこんとこをこれでもかと強調していた。調べたことないので知らんが、中等教育あたりでその辺をネイティヴもゴリゴリ勉強しているはずだし、ロジカル文章を読むのに慣れた知識人が書く文章は、当然ロジカル文章に仕上がりやすい。乱暴だがわかってくれよ。

とか何とか言ってはいるが、もう一つ、論理力、想像力と並んで重要だなぁと思う能力について、ここまでまるで触れていない。それは、「違和感」だ。「何でいきなり文体変わってんの?」とか、「何この比喩表現、意味わかんない」とか、「ここの段落、何となく不安感あるけど何これ」とか、「おかしい」と思ったところに執着する能力は限りなく大事だ。そこから論理力を働かせるか、想像力に任せるかは置いとくとして、「違和感」のあるところには、必ず何か読解の鍵があるだろう。経験則なんで論証できんが、要は、うまく作者に騙された瞬間がそこにあるということだ。

まず、誰でも獲得できる論理力。次に、無理だと思うが想像力。プラス、お前の「違和感」をほっとくな。わかった気になるな、まぁいいやと思うな、その辺の負けず嫌いスピリットも大事なのかなー。

本当に「最後に」

ここまでの僕の駄弁を検証する実例として有効であろうサンプルが、まさにこの文章です。ロジカルに書こうとして書きだして、面倒くさくなって途中から出来の悪いエッセイ的にずるずる流れている構造がまずサンプル。「俺」「僕」を使い分けているとこに違和感を覚えません? そこに意図がある。「だ」「である」口調が基本だが、口語的表現やスラングが混ざり、文末に「と思う」が登場する瞬間が多い。断定的に事実を述べようという評論文めいたことを始めておきながら、くだけた口調をぶちこむことで一種のアクセントと照れ隠しをやっており、検証しきれない部分で「と思う」とぼかしたりする。

あぁ、自分の駄文ですら読解って楽しいんだけどなぁ。I'd like to turn you on.