PLAYNOTE 市民劇である

2009年02月03日

市民劇である

[演劇メモ] 2009/02/03 23:26

二年目にもなれば余裕しゃくしゃく、口笛吹きながら切り回せるよ、ってほど、楽じゃないのが市民劇です。

あと一週間で小屋入り、ほぼ毎日稽古な今日この頃だけど、まぁ人が集まらない、集まらない。高校生組は元気に毎日参加だけど、家事や介護を抱える主婦や、店を切り回す女店主、ばりばり働く社会人、稽古になんか来れるわけない。

そんな中、やりくりして来てくれているんだから、ありがたいこと。柏の公民館は21時CLOSEなので、稽古時間も限られている。大変だわ。

台詞が入らない病はずいぶん沈静化してきたけれど、まだまだ。「真っ白になっちゃう」なんてのは、油断してるとやっぱり出る。長くやってても出てくるこの真っ白病、はじめて演劇をやる人に出てくるのは当然。50過ぎたり70過ぎたりで「はじめて」に挑戦しているその勇敢さをこそ誉めそやしたい。

と言っても、こちらは気が気じゃねーのも確かだがな。やっぱり、稽古時間が限られちゃう分、体に台詞がなじむまでに時間がかかるんだよね。台詞は体で言うものだから、いくら自宅でにらめっこしても意味がないものだし。

若い子でも不安要素は盛りだくさん。表現をやるということは、役者をやるにしても脚本を書くにしても演出をやるにしても、自分自身、自分の魂と向かい合って、そいつを切り刻んだり露出させたり煮たり焼いたりするものだから、その人の抱えているコンプレックスや自意識なんかがすごい前に出て来る。特に20歳前後なんて自意識の花盛りで、人間的に言えばポエムとか書いちゃうようなクソめんどくせー年頃だから、演技にも自分自身というものが裏返って出てくる。そいつを裏返して生身を見せたい、と思うけれど、それってもはや精神療法に近い分野だなぁなんて思ったりもする。

そういう多々な難題を抱えつつも、時間は進み、本番は近づくわけで。俺にとっては演劇のちょっと珍しい応用って感じだが、初参加の人々にとってはまるで新しい体験であることだろう。去年も人生観変わったくらいのことを言っていた人がいたが、今年はどうなることやら。

僕は僕で不安感がばりばりある。相手が源氏物語なので、脚本家として非常に不安だ。「市民劇で源氏」というくくりなので、極力わかりやすく、極力シンプルに、極力ストレートに書いているから、何かこっ恥ずかしい瞬間がある。でも、そういうストレートで素直な言葉の方が胸を打つ瞬間も確かにあって、自分の作劇スタイルが一気呵成に変わる、とまではいかないだろうけど、少し別のエッセンスが注入されそうではある。

現況、困ってることはいっぱいあるんだが、さっきも出演者のおばさま(失礼!)と電話で人生相談めいたことをやっていて、最初は心配で胃がひっくり返りそうだったが、終わってみて何だかほんわりした気分になったりして、そんなことを感じている自分に違和感を覚えて苦笑したりしている。僕もあと数十年で死ぬわけだが、この体験はいったいどういう意味を持つのだろうか。

* * *

これは、終わった後にまた書こうと思うが、市民劇というやつを通して、演劇と社会の関係について、すごく実地から勉強になっていることは確か。結論はシンプルだが、今ここで書くことに意義を感じないので、いずれまた。ただ、大学で理屈をこねくりまわす人生を選ばなくて、よかったと思う。