PLAYNOTE 4x1h『ソヴァージュばあさん/月並みなはなし』

2009年01月25日

4x1h『ソヴァージュばあさん/月並みなはなし』

[演劇レビュー] 2009/01/25 00:46

昨年、俺が脚本提供して4x1hリーディング#0で2位になった『ソヴァージュばあさん』が再演される上、妄想エンターテイメントの中屋敷くんが会話劇の一つの完成形『月並みなはなし』を演出するというわけで観てきた。新宿シアターミラクルにて。

一応作家ということでアフタートークにも出演したのだが、すっごい微妙な空気を作り出してしまってえらい反省したり後悔したり開き直ったりしているので、釈明の意図も込めてレビューを書いておこうと思う。

さて久々のミラクル。いろんな人と会う。

まず一本目は中屋敷演出『月並みなはなし』。いきなりパロディ・シーンから始まり、2007年版を知っている人間には楽しいスタート。男の女役、女の男役というのがたくさんあって、それだけでくだらなさと思い切りの良さで笑えるのだが、2007年版ではしっとりとしていた名シーンがことごとく茶化されているのには思わず吹いた。よく覚えているものだ、中屋敷くんも。

何せ自分は2007年版の演出助手をやっているのである。自分の公演とかぶっていたため、ほとんど本番つきくらいしかできていなかったのが実情だが、よく覚えている台詞の数々。フラッシュバックする記憶。そして舞台上で展開されるうねうねした人々の絡み。

ただ、そういう奇をてらった面白さ、ギャグとしてのギャグは開始30分で飽きてしまったのも事実。元から、中屋敷×月並みなんてゲテな組み合わせは誰が発想したんだ、奇をてらうだけじゃ時間は持たないぜ、と思っていた。が、ここから中屋敷法仁の底恐ろしさが出てくる。

二人で一役、という演出方法をしていたのだが、それが徐々にズレてくる。片方ではある台詞を怒って言ったと思えば、もう片方では静かに見下すように言ったりする。あるいは言ったり言わなかったりする。左右2チームの微妙なズレが何ともグロテスクで想像力を刺激する。人間の二面性、主観のズレ、二つの平行世界、人間のオリジナリティのなさ、言葉という媒体の弱さ、いくらでも想像できる。後出しじゃんけんみたいで恥ずかしいことこの上ないが、自分が手がける予定になっている3月の『15 minutes made』および7月の『二人で狂う』でやろうと思っていた方法論に重なるところが多かったため、面食らったし、見事に中屋敷流の成果を上げていたので「やられた」と思った。

最終的には、これはPPTで言ったことと同じだが、ベスト・チョイスの演出的選択ではないと思う。やはりこの『月並み~』は、密な会話劇として演出した方が作品的な懐は広くなる、描ける深さは深くなる。ただし、そういうオーソドックスな演出がほぼ唯一無二の選択肢であり、何をやっても失敗しそうな『月並みなはなし』を全く独自のやり方で演出して、成功させてしまう中屋敷演出はやはり驚嘆に値する。ぶっちゃけ、俺は面白かった。さすがだなぁと思った。

一番「うめぇなぁ」と思ったのは、これは休むに似たり。: 速報→ 「ソヴァージュばあさん / 月並みなはなし」4x1h Play#2なんかでも指摘されているところだが、コウドウとその彼女であるモリが、よく意味はわかんねーんだけど、体を揺らしてコミュニケーションをとろうとするシーン。まずコウドウがモリの機嫌をとろうとしてやって、後に、モリがコウドウの落胆を慰めようとしてやるのだが、このすれ違いっぷりと、このプライベートな親密さを描くっぷりが鮮やかすぎて「うっ」と思う。ラストになって伏線として振られていたこの体の揺すりを再度見て「うっ」と思う。人間の心を突かれる。中屋敷演出の本当に面白いところは、奇をてらったり元気いっぱいな感じがしつつも、こういう繊細の一部をすくいとっている点にもある。きちんと人間の生理をわかっている。

続いて『ソヴァージュばあさん』が上演にかかるわけだが、これがどうにも評しづらい作品であった。自分の脚本であるとかいうのは割とどうでもよい。率直に言って、僕と世莉さんの極めて個人的な確執や歴史が間に入ってくる観劇体験であった。

演出はいわゆるナチュラリズムやリアリズムと呼ばれるものから大きく離れている。俳優の体が銃を表現したり、記号的なリズムを刻んだり、象徴として動いたりする。人間同士の向きも、同じ会話をしながら二人ともキャパを向いていたり、まるで違う方向を向いていたりする。小道具や血糊は全く使わず、身体表現だけで描く。さらに、背景に真っ白な映像が大写しにされている。映像の中では気がつかないほどゆっくりと、四人が暮らす部屋の中身が線画で描かれていく。やがて線画は完成し、部屋の様子が描かれるが、それは間もなく炎に焼かれる。

これは、昨年の『三人姉妹』のWIP前後での顛末を知っている人間にとっては、実に面白い展開だ。黒澤世莉という演出家が果敢に新しいモノに挑戦しているというのを観るというのはいい気分がする。何故って、人間同士の細やかなコミュニケーションを描くばかりではなく、その先にあるさらに演劇的で抽象的な領域に足をかけようとしていたのが黒澤世莉だったからだ。その冒険の船出を僕は祝福する。

が、『ソヴァージュばあさん』という戯曲でやるべき冒険でないこともまた確かだ。あれほど自然主義、あるいは心理主義的リアリズムにとって好都合な本もあるまい。少なくとも自分の持ち手の中では最もそういうリアリズム演劇との整合性が取れた本であると思う。新しい演出をやって、例えば歴史的なピーター・ブルックの『夏の夜の夢』や、記憶に新しいタニノクロウ氏の『野鴨』ように勝利を勝ち取る者もいるのは知っているよ。今回がそうではなかったと思う、それだけである。

何より難しいのは、四人の人物が徐々に擬似的な家族を形成していく様を描かなければならない(後でぶっ壊すために丁寧に描かなければならない)戯曲において、ああやって視線や体の向きさえ合致しない演出をやることで、そういう精神的な癒着やコミットメントがぼやけてしまったことだと思う。僕はやはりテーブルが欲しかった。それを囲む人々の絵が欲しかったし、交錯する視線が欲しかった。以前自分も『ベツレヘムなんちゃら』という芝居で視線や体の向きが交錯しない、あえてズラす演出を取り入れたことがあったが、あれは元々精神障害者の話だ。コミュニケーションしているように見えて、コミュニケーションできていない人々のお話である。ソヴァージュはむしろ逆、言語の垣根があって、コミュニケーションできていないように見えて、(悲劇的にも)コミュニケーションできてしまっている人々の話だ。あの方法論を採用するのは違うように思う。

また、火事のシーンも、映像が燃えているというだけで、人間の息遣いが感じられない。昨年の『プルーフ』でも思ったことだが、僕が書いたものはもっと暴力的で非人間的な物を含んでいるものだった。踏みにじられて肉がそげ落ち、悲鳴を上げる人間の叫びが書き込まれた本だ。少し演出家の掌が優しいように思うのは僕だけか。まあ、作家と演出家なんてのは喧嘩するくらいでちょうどいいんだろうけれど、でも世界は平和が一番いいしね。表現者としての責務としてこんなこと書いてるが、一緒に卓球でもしたいってのが本音だよ。

公演全体に話を戻そう。『月並み』にせよ『ソヴァージュ』にせよ、戯曲という素材を料理する上で最適の方法ではなかったように思う。が、昔はやった『料理の鉄人』よろしく、料理人・中屋敷法仁の独創性と着眼点の鋭さ(そしてソツのなさ)は堪能できたし、それまで和食の達人だと思われていた黒澤世莉がいきなりイタリアンにトライしたのを見て僕は胸のすくような気持ちすらする。が、演出家の顔が、出演者の実存性より前に見えてしまっている時点で、どこか演劇の最高傑作とはずれてしまっているように思えてならない。「目立たないのが一番いい演出」とかいうのは高校演劇レベルのつまらねぇ演劇論であって、一つも正解だとは思っていないのだが、目立ちまくっていようといまいと素材に奉仕する演出というもの、素材にあわせて包丁から付け合せまで選ぶ演出ってものがあると思うんだな。だから、今回の公演は、ラボラトリー(実験場)の公演としては僕はかなり高い点を出したい。ああいう実験は必要だ。逆に、最善の公演形態だったかと問われれば、ノーである。

なんてことをアフタートークの十数分で話しきれるはずもなく、テキトーにお茶を濁して帰ってきたが、どうにもモヤモヤする。N屋敷くんとK澤さんとはあと二時間くらい喋りたかったなー。あと、久々に実際に耳で聞いてみて、『ソヴァージュばあさん』はマジでいい戯曲だなと思った。俺、あれを他人が書いていたらたまげて弟子入りすると思うよ。半分うそ。

『月並み~』は思うところは多々あれど鬼才・中屋敷の仕事にうっとりできたし、俳優にもいい人がたくさんいたな。まず去年から気になっていた百花亜希、彼女はいいなぁ。ウサギみたいだ。チェコで食べたウサギはちょっとカスっぽい感触だったが柔らかいスープが溶け込んでおり、かつ「元はウサギだった」という哀愁が漂っていてとてもおいしく悲しかったのだが、それに似た味わいがする。そして、コウドウをやっていた二人はどちらもよかったが、山本真由美ちゃんはちょっとした知り合いなのでいいとして、熊川ふみ(範宙遊泳)、あれは誰だ。いい役者を見つけたなと思う。いつか一緒に火事場泥棒をしたり、ヘロインの注射の打ち合いっこをしたりしたい。いい眼をしている。今度ご一緒する佐野くんは観るたびにその適応能力の高さに驚かされるが、今回は改めて中屋敷演出との相性の良さを思い知った。ツーカーだなぁ。他に、いっぱいいて全員は書き切れないが、チェリーブロッサムハイスクールでお馴染みだった椎名豊丸氏が、まったく別の表情とキャラクターで出ていたのを観て、役者魂を感じた。

『ソヴァージュ~』の方は、挨拶もろくすっぽできずに帰ってしまったが、やはりバランスのいいキャスティングである。菊池さん+坂口さんという怪物的存在感の俳優を二人も抱えつつバランスがとれているというのが凄まじい。酒巻さんが以前話していたときの通り、果敢にあの本の笑いのポイントを攻めていた点に大変な好印象を感じた。面白かったし。競泳水着主宰の上野さんに関しては、リーディングのときの思いつめた繊細さの方がよかったように思う。そこは、演出とのトレードオフなのだろうから何とも言えないが、ちょっと窮屈そうに感じた。菊池氏・坂口氏両名に関しては、もっと暴れてくれちゃってもいいんじゃない、とも思ったな。手前味噌だが、思った以上に戯曲の強度が高いように思う。展開や人物の背負っている性格がこの上なく明確だ。ならば、もっと的確に遊べる本なのだろう。

ほらね。正直に評論するということのなんと難しいことよ。結局言い訳やフォローが満載になるのさ。今日もアフタートークで30秒くらい絶句・悶絶した後に「イマイチ!」って言ったら場が凍った。表現者として嘘をついちゃいけないってのは旧弊な考え方なんだろうね。だが、あの現場には、そういうぶつかり合いを求めている演出家や役者が多数いるとも思うんだ。クリエーションに対して真摯な人々が。そういう人たちと、もっとぶつかるように話してみたいものだ。という希望を込めて、こう色々書いたよ。