PLAYNOTE 中田耕治著『ブランヴィリエ侯爵夫人』

2009年01月22日

中田耕治著『ブランヴィリエ侯爵夫人』

[読書] 2009/01/22 12:09

いずれやる芝居のネタ、予習として読んだ。17世紀に実在した、小柄でグラマーで美人で、そして毒殺魔な侯爵夫人のお話。

最初から理解することを放棄して読み始めた。女というだけで方程式では解けないものなのだから、これほどの女を解こうと思えば、量子コンピューターを持ち出したって無理だろう。吐息を感じられればいいと思って読んだ。

中田氏の文章は飾り気が少なくテンポがいい、評伝としては優れたものだと思うのだが、ご本人が自ら賛辞している澁澤龍彦氏の描くようなものと比べると、この感じるべきところを解釈すべき意味でやってしまっているようなところがいくらかあって、澁澤氏がいくつかの著作でやってみせたような途方もなく遠大で深淵な魅力には及ばない。元より、それらは、評伝や講釈というよりは、渋澤氏が自分自身の内臓を世間に向かって開陳しているようなものであるから、ちょっと次元が違うと言えばその通りだ。

ただ僕は中田氏の評伝を通して自由に想像する楽しみを得られたのだから、それはそれでよかったのだろうと思う。演劇化するにあたって、評伝作者の主張や解釈がスタートラインの時点で盛り込まれているというのは不幸な呪縛だから。

ブランヴィリエ侯爵夫人を形容する言葉として、幾度も「聖女」というのが出てくる。これは現代の識者らが想像して言っているのではなく、当時、同時代を生きた人々が、彼女のことを「さながら聖女のようだった」と何度も述懐しているという性質のものだ。ニンフォマニアでモラル皆無の自己中女を、どうして聖女と呼べるのか。後々のために少し思索を巡らせておきたい。

いくつか要因はあるだろうが、まず第一に挙げられるのは、美女だったということ。ブスやブサイクに人間は憧憬を覚えない(「聖女」と呼ぶのは同情ではなく一種の憧憬だろう)。これ以上語る必要もないくらい明白な事実だ。

次に、これが一番理由としては大きく感じられるのだが、どう表現していいのだかよくわからない。マリー・ド・ブランヴィリエが役者であった、ということなのだが、彼女の状況把握能力と、周囲の期待に沿う本能は驚くほど高い。ベッドサイドでも寂しい未亡人から淫蕩な貴婦人まで演じ分け、人前では自らの魅力を隠すことなくふりまきながら、知的な側面だったりおしゃべりだったり高雅だったりする。父の前で心にもない涙を流して女らしく許しを懇願したかと思えば、別の証拠が出て状況がひっくり返ると、こちらも手の平を返して理屈を武器に相手の弱みをつくことで一本取ろうとする。恐ろしく賢いだけでなく、恐ろしく感情的に柔軟であり、振れ幅が高いのだろう。さらに、そのどの感情にしても表情にしても、一つとして嘘がなかったのだろうとも思う。マリー・ド・ブランヴィリエは怜悧に論理を働かせる詐欺師というよりは、その場その場で感情を召喚する憑依型の演技者だ。詐欺師は長話で煙に巻くことはできても、涙でなき落とすことはできないし、そのような涙の川は底が浅いからすぐ見破られてしまう。

女と嘘ってのは本当に切り離しては考えられないものだから、この題材は実に面白いと思う。澁澤龍彦が書いた方のマリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人の短い評伝は、こんな一節から始まっている。

フランスの薬物学の権威ルネ・ファーブル教授の研究調査によると、毒殺犯の七十パーセントは女性だという。

毒殺という行為自体にも僕はなまめかしい、女性的な色気を感じる。いずれ上演します。