2008年11月10日
村上龍『料理小説集』
「へー、村上龍とか好きなんだ?」
とか言われそうだが、馬鹿野郎、好きである。恥ずかしながら、文学の目覚めは『コインロッカー・ベイビーズ』だコノヤロウ。ずいぶん手垢にまみれた感もあるが、未だに好きだよ。
元は古本屋で100円だったから積読しといたんだけど、源氏やら何やらに疲れたので、電車の中での気分転換に…と思って手に取った。さすがの読みやすさ、現代口語小説! 二時間くらいで読了。
料理にまつわるイイ話、というよりは、料理が名脇役として登場する短編エピソード集。いくつか気づいたこと。
- 料理や食べ物というのは何て雄弁なんだろう。比喩表現として、モチーフとして、アレゴリーとして、匂いや情景を喚起するイメージとして。
- お話が面白い
全然関係ないとこで僕はブランキージェットシティが大好きなんだけど、浅井健一も実にうまく料理を比喩や空気作りとして歌詞に使っている。「メロンソーダとチリドッグ、そいつがあれば生きていける」と言えばだいたいどういう人間かイメージが形作られるし、「グレープフルーツジュース」と言ったときの純情で透き通った感じや、「スパゲッティヘア」と言われた男の風貌と憎めない性格、「ねぇその鯖、新鮮かい、虫沸いてるかい?」と問われるコックがいるレストランの空間性。なんて雄弁。いつか「浅井健一の詞における料理および食べ物がもたらす効果」みたいな論文書きたい。
私達は歳を取るほど鑑賞を恐れるようになる。取り戻すことのできない時間がどんどん増えていくからだ。
だが、同時にセンチメントから守ってくれるものと出会うこともできる。
例えば、あのブイヤベースのようなものだ。
あのブイヤベースには、海の香りと、それに勇気が詰まっていたのである。
歪んでしまった父子の関係を描くに用いるイカスミのスパゲッティ、南米の崖っぷちで歌を歌う日本人の少女が故郷あるいは自分自身と繋がっているために思い出すオムライス、古い一瞬の愛の記憶をとどめておくためのイコンとしての瓶詰めのキャビア。うまいうまいうまいよ龍さん。
が、基本的には軟派な本です。ぜんぜん肩肘張らずに読める。電車の一駅間でワンエピソード、でもその中にきちんと読み応えのある話が。32本も。うまいなぁ。
そして、うまいなぁと思うのは、会話の妙と、人物のえぐり方。その人物の人物性が最もよく出る瞬間を切り取っているから、ほんの十ページ足らずの短編なのに、人物の輪郭がきりりと濃いし、描いている情緒や思想に骨がある。何でもないレストラン、ホテルのバー、そういうところで、会話でここまで面白いことがやれるんだなぁってのは、衝撃だし脅威だね。
もちろん、村上龍を敵視したり嫉妬したりしているなんて不遜なことじゃないんだよ。ただ、仮にも同じフィールドでやってる先達は、こういうことができるんだな、と思うと、俺がやっていることなんてクズでしかないし、これが100円なんだったら小劇場はすべて潰していいんじゃねーかって思う。極端だけどね。
人生に疲れたサラリーマンから、執筆に疲れた作家、毎日の食事の準備に疲れた主婦、走り続けることに疲れたマラソンランナー、誰が読んでも面白いはず。キーワードは二つ、「疲れた」と「食事」かな。疲れた人間が読むにふさわしいくらいの軽さ(軽過ぎてもいけない)と深刻さ(深刻過ぎてもいけない)があり、なおかつ、食事という人類共通の快楽であり儀礼である瞬間を描いているので、誰でも面白く思えるんだと思う。まぁ、俺以外に読んだ奴の意見なんかどうでもいいんだけれど。
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