2008年11月09日
多田淳之介+フランケンズ『トランス』
横浜STスポットでの公演であること、演劇問題児・多田淳之介氏の演出作品であること、僕がかつて大好きだった鴻上尚史の『トランス』の上演であること、等々の事由から、観に行った。
ざっくり書くと、目隠しされた役者たちによって演じられる手探り状態の『トランス』。一応三人の登場人物を三人の役者が演じるが、プラス一人がいるので、例の人が自分を××だと言い出す下りなんかでは役者が入れ替わったりするし、相手役の台詞まで読んでしまうことで、独り言っぽく聴こえたり見えたりする瞬間もある。
「目隠し状態」なので、まぁ危なっかしい。危なっかしいように「見える」。台詞は棒読みに近い場合が多い上に、役者の注意力の大半が別んとこ(目をつぶってるからね)に言ってるので奇妙な響きに聴こえる。それは、要は全員が全員うわごとっぽく聴こえてクレイジーなことやってるように見えて、ってことで、奇妙に『トランス』という作品の雰囲気と合致してるし、確かにこれは見事な「演出」だ。
見ていて面白い。それは、演技術や理論や衣装によって武装した役者が、安全の確保された環境で筋書き通りに怒りや悲しみを表現しているような旧来の演劇とは異なり、もう目の前で困惑したりマジでビビったり面白くなっちゃったりする俳優の身体、ギリギリの崖っぷちに置かれた俳優の身体が見れるので面白い。そういう意味で言えば、決して貶めている言い方ではなしに、演劇というより見せ物を見ている感覚に近い。綱渡りしている大道芸人を見ているような。演劇だって昔は、あるいは今でも本当にいい物では、筋書き通りに上演されつつもその綱渡り感、現前する身体のリアルに打たれて心がキャーッってなる場合もあるんだけれど、こっちの見せ物寄りの方がブランニューだしコンテンポラリー。多田氏本人がブログでつぶやいているように、コンテンポラリーって言うよりはアングラ的と言った方が適切だと思うけれど。
で、こないだ読んだデリダ的言い回しを今無理やり使うとすれば、こいつはまさにトランスの脱構築であり、安全に保護されたエリアでの「物言う術」の芸術=演劇の脱構築だし、確かに面白いんだが、何か「それ反則だよ!」って思っちゃう俺がいる。確かに面白いんだが、注意して見たいと思う。こういう多田演出を見て、そこから童心に戻ったように演劇の新しい楽しみ方を再発見していく演出者やアーティストがいればそれは幸福な科学反応だろうけど、多田演出をネタに延々芸術論をぶつような評論が出て来たらそれは危うい傾向だろうなとも思う。と言いつつ、このエントリーもその「危うい傾向」にハマりつつあるわけだが。
こないだのデスロックもう東京でやんねーよ宣言と言い、こういう演出と言い、多田淳之介の挑発的で真摯なスタイルというのはとても尊敬すべきものなのだが、超頭いいはずの人なのでもっと喋って欲しいなとも思う。何考えてんだろ。マイミクだから直接聞けばいいんだが(笑)、そういう恥ずかしいこともしたくないしなぁ。
もやもや。面白かったんだがもやもや。
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