PLAYNOTE アロッタファジャイナ『ルドンの黙示』

2008年08月24日

アロッタファジャイナ『ルドンの黙示』

[演劇レビュー] 2008/08/24 16:38

主宰の松枝さんと「シェイクスピア好き」という漠然とした共通点だけでささやかな交友を築かせて頂いていた劇団アロッタファジャイナの新作公演。驚いた、新国立劇場! 祝辞を言うのは柄ではないので、こっそり観に行って来たよ。

fringe blogのこんな記事を読み、これを他人事にしておくようでは演劇人として腐っているような気がするので、正直に書きます。

物語と劇場のスケール感と比して、凄まじくシンプルな舞台セット。対面式の客席の真ん中に、横長の長方形の舞台。左右に数十センチだけ上がった踊り場のようなスペースがあるだけで、何もない。

終末感漂う設定ながら、まずは祝祭的な雰囲気の中で幕が開き、生演奏の琴(?)が奏でられ、リラックスした始まり方。と思えば突然突き出されるダルマ状態の人の死体、その首を楽しむように切り飛ばす帝国シハージャの王・ケアルガ。続いて天井を飾っていた布が舞い降り、そこにそのまま映像と歌が重なって、クレジットとタイトルが示された後、次のシーンへと続いていく。空間演出として大変美しく、新国立のスケール感を存分に生かしている。内容的にも、事件同士が引き起こす見事なコントラストが観客の心を叩く中、鋭利な台詞がもたらす簡潔にして要を得た状況説明が導入として素晴らしく機能していた。見事なオープニング。

アロッタの本公演を観るのはこれが初めてだから、一体どういう演出がされるのか全く想像がつかないでいて、むしろ立て込みまくり飾り込みまくった額縁舞台を想像していたものだから、シンプルな舞台を照明と俳優だけで別の空間に仕立てていく趣向は大変俺好みで嬉しい意外。長大な物語を間断なくスピーディーに見せつつ、セットではなく俳優の肉体で演劇を語っており、これぞ演劇、というエクスタシーを得る。

女優陣の肉体の扱い方や空間の描き方、残虐なシーンの中に閃く松枝氏のフェチズムには同調するところがあるのか、ねっとりじわじわと心臓を撫で回されるような感じがして、大変心地よかった。殺陣のレベルかその見せ方かが大変上手く、スピーディーで鮮やかな殺陣が観れたのもよかった。殺陣なんか俺は別にどうでもいいのだが、エンターテイメントでもある演劇として、音楽、映像、歌、殺陣、美しさ、グロテスクさ、美男、美女、マッチョ、デブ、そういう「見世物」として観客の心をそそるものがバランスよくあちこちに配してあるポップさに対して、そしてそのきちんとした完成度に対して、「よかった」と言っている。殺陣がパーツとして機能している演劇って少ない気がするんだよね。単なる見せ場、眠気覚ましにしかなってない場合は結構多い。

これらを適切に配置し、起伏と伏線のある物語を描く作家としての構成力と、空間を隅々まで使い切り、俳優を群舞させ、かつ前述の音や光や視覚的な興奮剤をきちんと処方する演出家としての目、いずれもかなり高いレベルにあって、感動した。ルデコでの公演とはまるで違う作家として・演出家としての彼の仕事がそこにあって、純粋にすごい。

人間の生皮をべりべりと引き剥がしてその骨肉と流血を見せ付けるような、心の裏側に誰もが持っているどろっとしたものを無理矢理にも引き出してみせるような、いい意味でのペシミズムが話の中核を成していて、割と残虐な話や映像に強い自分でも、そこまで描いてしまうのね、と思わされる瞬間が多々あり、心を掻き回されて大変よかった。いい意味でのペシミズム、と書いたのは、単にニヒルに絶望するではなく、作家が現状に対するはっきりとしたNOを提示している姿勢が見える、という意味で、積極的な意思を感じるペシミズムを感じたからだ。松枝氏は、現実的でマキャベリスティックな覇王論を唱える暴君ケアルガのような心と、それに背を向け「分け隔てのない世の中を作る」などというクサい台詞を恥ずかしげもなく吐いてしまうイズワルのような心を、両方自分の言葉としてはっきり語ることができるのだろう。片方だけなら楽ちんだけど、両方に説得力を持たせるのはなかなか難しい。最近くそったれな作家の仕事ばかりを観ているような気がしていたが、きちんと劇作家をしている人の本が観れて満足であった。

と、話の行き掛かり上いいとこばかり並んだが、マイナス点なところも書いておく。まずは、これは完全に俺の趣味に合わないというだけの話なのだが、カッコいいカタカナ名を持った美男美女がカッコいいポーズでカッコいい衣装を着て勇ましく勇敢に剣を振り回す、という光景には馴染めなかった。もちろん俺だって、いくら帝国の王の名前だよと知っていても「ケアルガ」と言われればHPが全快してしまいそうな気分になる世代なのだが、ゲームっぽいのを舞台で観ると引いてしまう。人の心のえぐり方が生々しかっただけに、何かミスマッチな印象を受けた。好きな人は多いんだろうけど…。

また、シハージャVSドレの構図にカソーミという部族民のレジスタンスが絡み、かつ、それぞれの中央にいる三人物、イズワル、マリア、マレアの三人がやりとりする心の綱引き、そしてその行き違いから飛び火し火勢を強めていく戦乱を描いたパートの物語がよかっただけに、もう一つのパートであるルドン少年の物語に今一つ没入し切れなかったのは残念。一人の女性、一人の少年の言行が世界の在り様を決めていくというのはまさにセカイ系の構造だが、セカイの中の入れ子、その中の登場人物であるはずのマリアやケアルガの存在感と説得力が圧倒的であり過ぎたため、なーんかルドン少年パートはかすんで見えてしまう。俳優のためか、脚本のためか、まではわからないが、ルドン・パートにもっと惹き付けられる要素があればと思ってしまう。

正しくも松枝日記: ハードワークデイズによれば元々は三時間あった芝居を二時間二十分まで切り詰めたのが今回の上演版の模様。演出者としても興行者としてもこの判断は正しかっただろうし、俺も観客としてはこれがありがたかったのだが、もっと隅々深々とあの世界の構図を感じたかったから、フルバージョンで観たかったなぁという思いはある。描かれている情感の深くどす黒いことに関しては背中を手斧で殴られたような戦慄を覚えたが、全体を通して迫ってくる巨大な悲劇感、要はカタルシスのようなものは今一つ薄い。スタートがまさに絶品であっただけに、ラストで圧巻というものを観たかった。

と、書きたい放題書いたが、大枠では本当によくできた舞台作品であったと思う。何よりこれを…、そう言えばおいくつだか聞いたことなかったが、たぶん三十代前半~中盤の作家・演出家が作ったということには焦りを感じる。作家力・演出力としても、興行師としての人脈やら目配りやらにしても、「実力」という言葉を使ってお世辞にならない。また、僕は松枝氏のフェチズム(=美的感覚)やペシミズムにかなり共感を覚えたが、そういう美しい瞬間がそこここで見れた。面白かったっす。

最後になってしまった。ついでのように書くのも失礼だが書かないのも失礼なので書いておくが、俳優では相変わらず大田守信が卑怯なまでの特殊な存在感を出していたのに笑った。きちんと自分の持ち味を生かしている上に浮いてない。ずるいよ、あれ。手塚治虫作品におけるヒョウタンツギのような安心感があった(笑)。元吉くんとペアでやりたい放題やってたが、いいコンビだったなー。また、植木紀世彦氏が大変いい。笑ってるときも怒ってるときも槍をぶんぶん振り回してるときもよかった。濃くて熱くて誠実で、いい俳優さんだ。そして、マリア役の満島ひかり嬢は、若さ、柔らかさから始まって、恐怖から妬みから迷いから気高さから狂気から何から何まで、人間の感情を隅々まで歩き回るような役であったのに、そのどれをも神々しく演じており、ちょっとどうかと思うくらい可憐であった。ありゃハマリ役だなぁ。篠田光亮氏も威圧的で高雅な存在感を一瞬の隙もなくまとっており、魅せられました。