PLAYNOTE 『小部屋の中のマリー』を振り返って

2008年06月17日

『小部屋の中のマリー』を振り返って

[公演活動] 2008/06/17 03:50
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6/8マチネ

アフリカのとある部族の言い伝え。子どもは真っ白くてピカピカの心を持って生まれてくるが、雨や風や人の心に触れるたびに、自分を守ろうとして、真っ白くてピカピカの心に一枚ずつ色のついた皮を乗せていく。例えば悲しみに触れて真っ青になってしまわないように赤、例えば親や先生に怒られて赤くただれてしまわないように黄色。そうやっていろんな色を重ねていくうちに、小さくて丸くて白かった心は、いつの間にか、いびつでデコボコ、黒に近い濁ったにび色に変わってしまう。アフリカのとある部族の言い伝え。

って、上に書いたことはまるっきりすべて嘘なんだけどな。

フィクションであることは素晴らしいことだ。今回、劇中で引用した二つの言葉を書いておこうと思う。

アメリカのある作家の言葉

本当に美しく価値あるものは、玄関の外にはない。リヴィング・ルームのテーブルの上にもない。気立てがよく器量もいい妻とのベッド・ルームにも見つからない。それは、一人きりで紅茶を飲むときの、我々の想像力の小部屋の中でのみ出会えるものだ。

シェイクスピアより

怒り、悲しみ、喜び。全てほどほどにするがいい。
燃え盛る怒りは己の手足まで焼き尽くし、復讐の刃を持てなくする。
度を越した悲しみに耽れば、涙の海で溺れ死ぬだけだ。
喜びの密も塗り過ぎれば、却って健全な食欲を奪ってしまう。
そうやって破滅の淵に追いやられた者どもは、
この世の命を失い、本や伝説の中にその姿を残し、
人々の物笑いの種になり続けて来た。

勘のいい人は大体わかるだろうけど、これもどっちもでっちあげで、公演期間中に一体誰が気づくかなーと思っていたら、誰も気づかなかった。フィクションであるということは素晴らしいことだ。

* * *

今回の『マリー』はオール・フィクションでした。『マリーの部屋』という思考実験があまりに面白過ぎて、でもマリーが外に出たときに一番びっくらこくのは色よりも生身の人間存在なんではないか? というのが全ての着想の元。なので、俺の書いた『マリー』に出てくるマリーは、「科学者」ではなくて「人文科学者」。

「作家は処女作に向かって成長する」という言葉があるけれど、そういう意味で今回の『マリー』は、俺の劇作上の処女作である『犬みたいな格好』に極めて近い。『犬みたいな格好』では、犬として育てられた少年が、監禁状態から救出され、少しずつ人間としてのアイデンティティを得ていくが、やがては「やっぱり犬がいい」と言ってSMクラブに行って犬みたいな格好をしてケツにびしばしムチを食らいながら「気持ちいい」と言って終わるという最低にして最高の作品だった。『マリー』も同様に、あれこれあって監禁状態から出るけれど、「マリーは幸せ?」「マリーは元気?」というシンタとクムの問い掛けに対し、少なからず人生の意味を知っている小畑女史は絶句する。人生を肯定的に捉えていたいお年頃の牛尾嬢は、子どもに対しては愛と夢を語り伝えるべきだと思っている牛尾嬢は、「そしてマリーは、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。ちゃん、ちゃん」と言って無理矢理に物語を終結させる。でも、マリーが最後に見た人の影は、あの人のものだったわけで。

今回、何気にすげぇなと思ったのは、「むかしむかし、あるところに……」で始まって、「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。ちゃん、ちゃん」で終わる、という、まずあり得ない構造を持つ物語になったこと。もちろん間に描いたものは別におとぎ話ではないのだが、白黒監禁生活という現実的には実現不可能な枠組みを、たらたらと説明するんじゃなくて「こういうもんだ」で一刀両断しようとして持ち出した「おとぎ話」というファクターが、物語全体を規定してしまった。イッツ・ミラクル!

「人の心はなぜ歪んでしまうのか」という青臭いテーマを、自分なりに考えた結論としての芝居でした。性善説とか性悪説とかそんな単純な話でもなくて、人の心が歪んでしまう本当の理由は、冒頭にでっちあげたアフリカの部族の言い伝えと似たようなものだと俺は思っている。俺は両親を尊敬しているし、友人を好いているし、恋人を愛しているし、街ですれ違う人々を愛らしく思っているが、俺が私欲と憎悪にまみれたこんな人間になってしまったのは、みんなそいつらのせいだからだ。

俺がもう羽のついた馬とか変身ベルトとか神さまの存在とかを信じられず、世界の実像はまさに今回のライブペインティングの最後の色味と似たようなもので、美しさとか価値のあるものはその隙間に見つけるか、想像力の小部屋の中に閉じ込めて置くかしかないと思っているのは、俺がずっとずっと賢くなったからである。そしてそれは、大変に不幸なことなのだ。

* * *

普段ならここで演出がどうだったとか演者がどうだったとか舞台や照明や音響がどうだったとか書くところだが、今回はそれはやめておく。もう、そういうことを考えている段ではないと思うからだ。寿命はそんなに長くない。

一点、次回公演への宣言を兼ねて書いておこうと思うのは、もうこういう作り方はしない、ということ。第四回公演『ベツレヘム精神病院』をやったとき、DCPOPは第二期に入ったな、と何となく感じていたが、第五回『セシウムベリー・ジャム』、第六回『小部屋の中のマリー』とやってきて、「こういう作り方」はこれで最後にしようと思っている。「こういう作り方」って何さ、と言われれば、48トラックもあるオーバーダビング機材を用意して、逆再生したりピッチをいじったりエフェクトをかけたり、楽器や声の音質を変えようとしてあれこれ努力したりする作り方である。次は、もっとストレートに、物語とそれを演じる役者の身体だけに頼ったことがしたいと思う。ロックンロールの歴史を見ればわかるように、技術の進歩や演奏技術の向上によってサイケデリックでエレクトリックな曲が流行った後に、誰もがもっとシンプルなもの(エイトビートとか、コードとか、歌声とか、スリーピースとか、そういうこと)に戻って行くように、俺もそういうことをやらねばならない。エフェクターをいじり倒す時期はそろそろ終わりにして、アンプ一本とギターだけで勝負できるような音作りをしなければならないし、もっと基礎的にリズム感を叩き直さなければならない。こっから先の作家的成長は、そういう努力にかかっていると思う。

「マリー」に関しては、まだまだ書いておきたいことがたくさんあるのだが、面倒なのでやめにする。七色くじらという俺のでまかせから生まれていつの間にかすくすくと成長した架空のくじらが、こうして何百名という人の目と耳に触れたことに、何がしかの幸福感を感じる。マリーは自分の分身であったが、同時に安城はもっと自分の分身であったと思うし、真理奈と須賀こそが自分の人間観を代弁するものであるように思う。堤、小畑、牛尾、本平は俺が観察し肯定し得る人間像であり、一方、中井は自分の夢だ。

うーん、こうしてあれこれ思い返してみると、なかなか盛りだくさんな本であったな。恥ずかしい、恥ずかしいと言って書いていた本だったが、あえてもう一度恥ずかしい思いをして書く。好きな本でした。

コメント

投稿者:search engine optimization vancouver (2012年01月13日 07:44)

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